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駅からまっすぐと伸びた銀杏並木を進んで、稲荷神社を通り過ぎ、坂道をのぼる。僕らの住むマンションは丘の上に建っていて、そのまわりは果樹園や林に囲まれている。そのため、残念ながら帰り道はこの坂道以外に存在しない。僕は満理奈の背中が小さくなって見えなくなるまで、のんびりと、まるでサーカスの象が平均台を渡るような足取りで坂道を進んだ。
マンションの敷地内に入るころには、すでに満理奈の姿はそこになかった。僕は胸を撫で下ろし、それからはようやく普通の歩幅で玄関へと向かった。しかし、そこで油断したのが間違いだった。満理奈は玄関のエレベーター前で壁に背を当てながら、まるで初めからぜんぶ知っていたかのような様子で僕を待っていた。そして流し目で僕を確認したあとにちいさな声で「ひさしぶり」と言った。数年ぶりに聞いた彼女の声は、風で竪琴を奏でたかのように透き通った声だった。
「あたしのこと、追いかけてたでしょ」
「追いかけてないよ」
僕は慌ててそう答えた。突然のことで気が動転したせいか、調子はずれな甲高い声が出た。満理奈がふっと笑った気がした。
「まあいいや」と呟きながらエレベーターのボタンを押す満理奈。「ねえ。エレベーター、一緒に乗る?」と言ってから挑発的な笑みを浮かべ、鞄から取り出したリップクリームを唇に塗った。
僕には、それがひどく誘惑的で官能的な仕草に見えた。もちろん友人から聞いた噂のせいもあるのだろう。けれど、多分それだけじゃない。久しぶりに会った彼女からは、なんだか危なげで未成熟なエロスのようなものを感じた。たかだか同じマンションに住んでいる女の子とともにエレベーターに乗るだけなのに、彼女とふたりきりになることを想像しただけで、急に耳が熱くなった。僕は赤くなった顔を満理奈に悟られないように、俯きながら急いでエレベーターの中へと進んだ。
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