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エレベーターに乗ってからは、しばらくのあいだ沈黙が続いた。十階と十三階の行き先ボタンは僕が押した。満理奈が十階で僕が十三階。乗っている時間なんてたかが知れてるはずなのに、満理奈とふたりきりの密室は妙に緊張して、まるで時が止まっているかのような錯覚すら覚えた。ちょうど五階を過ぎたあたりで「ねえ、翼くん」という声が後ろから聞こえた。「翼くんてさ、童貞?」
「え、違うよ」と僕はとっさに嘘をついた。
「なんだ、残念」と満理奈の声。そしてそのあとには、彼女の言葉が続くことはなかった。
僕はなんとか平静を装っていたが、心のなかでは動揺を隠しきれずにいた。なぜ急に? 僕の女性経験がなんだと言うのだ。それが彼女にどんな影響を与えるというのだ。そして、残念とは……?
たくさんの疑問が頭のなかをぐるぐると駆け巡り、そのうち脳みそがバターになってしまうんじゃないかと心配になった。
「じゃあさ、このあとちょっと付き合ってくれない? あたしんちで」と八階を過ぎたあたりで、ふたたび満理奈が口を開いた。
「君んちで?」と僕は訊ねた。またしても変な声が出た。
「付き合ってくれたら、あとでキスしてあげるから」
僕がびっくりして後ろを振り向こうとした瞬間、エレベーターが十階に到着し、ドアが開いた。満理奈は颯爽と僕の横を通り過ぎ、エレベーターから降りていく。そして、僕と向かい合わせになってから「じゃあ、待ってるから。チャイム鳴らして」とだけ言った。
「え、ちょっと……」
待って、と言おうとしたのもつかの間、ドアが閉まり、エレベーターが動きだした。窓越しに見えた満理奈はにっこりと満面の笑みを浮かべ、小さな手のひらをひらひらと振っていた。
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