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「幸福な王子ってさ、知ってる?」 「なんだって?」 「アイルランドの童話。オスカー・ワイルド。知らない?」 「ごめん、知らない」と僕は答えた。 「読んだほうがいいよ。博愛の精神っていうのかな。とても素敵なの」  満理奈はうっとりとした表情を浮かべながらそう言った。それから麦茶を一口飲んでベランダのほうへ向かい、窓を開けた。赤橙色の景色から弱々しい風が吹き込んできて、彼女の黒髪をさらりと揺らした。 「あたしさ、人の役に立ちたいんだよね。困ってる人の助けになりたいの。そう考えて、いろいろと悩んだ挙げ句、そうか、童貞の男の子の悩みを解消してあげればいいじゃんって思うようになったの」  夕陽を、きらきらとした無垢な瞳で見つめる満理奈。僕は迂闊にも、一瞬、そんな彼女のことを美しいと思ってしまった。 「そんなの、おかしいよ」と僕は言った。 「どうして?」と満理奈。 「愛がない」と僕。 「愛はあるよ。あたしは愛に満ちあふれてる」 「知らない人とセックスなんてしちゃだめだ」 「なにそれ、あたしセックスなんて言ってないけど」  そう言いながら悪戯な表情でこちらを振り返る満理奈。僕は恥ずかしくなり、思わず顔を背けてしまう。見事にはめられた。確かに彼女は「紹介して」と言っただけだ。いや、しかし、それもこれも、そもそもあの噂のせいでもある。 「君のさ」 「満理奈って呼んでよ。昔みたいに」 「君の悪い噂を聞いた。学校中で話題になっている。君が……君が誰とでも寝るって。それ、本当なの?」  僕は勇気を振り絞り、その話題を切り出した。もともと希薄な関係なのだし、今後どうなろうと知ったことではないと、やや破れかぶれな気持ちでもあった。 「へえ、あたし有名人なんだ」と満理奈は言った。 「真面目に聞いてるんだよ」と僕。 「あはは、でもそれは内緒」と満理奈。「翼くんが童貞だったら、寝てあげてもよかったんだけどね」  満理奈がゆっくりとした足取りで、おもむろにベッドのほうへ向かってくる。僕の隣に腰をおろして思わせぶりに手を重ねてきたりするものだから、僕は大慌てで立ち上がり、ドアのほうへと逃げだした。
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