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第一章 いつもの朝
朝食の香ばしい匂いが鼻をつく。
羽月祐真は、毛布の中に潜ったまま、まだ覚醒しきらない頭で、ぼんやりと疑問に思う。
なぜ、朝食の匂いがするのだろう。
確か自分は高校生になって、アパートで一人暮らしをしていたはず。実家ではないのだから、自分が作らない限り、こうして朝食の匂いが漂ってくることはありえないのだ。あれ? それとも実家に帰ってたっけ?
蜃気楼のように生まれ出た靄が、頭の中を占領していた。思考がはっきりとせず、前後の記憶も曖昧だ。
しかし、やがては、曇りガラスを拭うようにして、頭の中の靄は薄れていった。意識がはっきりとなるに従い、記憶も呼び覚まされていく。
ぱちりと祐真は目を開ける。
見慣れた天井が見えた。ここは間違いなく自分のアパートの部屋だ。古くて安い1Kの部屋。実家ではない。
眠気の残滓が頭から離れ、ようやく祐真は完全に覚醒した。
祐真は、ベッドの上で体を起こす。下方の床を見ると、布団が一組畳んで置かれてあった。以前、来客用に買ってあった布団だ。
十畳ほどの部屋の向こうに、ガラス戸で仕切られた板張りのキッチンがある。そこで、ガラス戸越しに、人影が動いているのが確認できた。
朝食の匂いの原因はあれだ。『彼』があそこで料理をしているのだ。
祐真は、毛布から出て、ベッドに腰掛けた。そして、部屋を見渡す。
部屋の右側にテレビ置かれてあり、その周りには、苦心して集めたアニメのフィギュアが並んである。その反対側には学習机。
そして中央に、折り畳み式の丸テーブルが置かれてあった。その上には、すでに二人分の箸が用意されている。
祐真は、それを確認すると、溜息をついた。それらは『彼』が用意したものだ。朝食を作ってくれるのはありがたいものの、はっきりと投げかけられる好意がやっかいだった。自分はその気はないのに。
あまり『彼』とは顔を合わせたくないが、いかんせん、今は尿意を催している。トイレは、キッチン横だ。つまり、この部屋を出て、『彼』のそばを通らなければ辿り着けない。
祐真は、仕方なく、立ち上がった。このままだと漏らしてしまう。そうなると、『彼』が喜んで片付けようとするだろう。それは嫌だった。それに、これから学校だ。モタモタしていては遅刻する。
祐真が歩き出そうとした時だ。気配を感じたのか、ガラス戸が唐突に開いた。そして、『彼』が顔を覗かせる。
「おはよう! 祐真!」
透き通ったクリスタルボイスが、祐真の耳へと届く。『彼』は、手にお玉を持っていた。まるで、新妻のような風情だ。
「……ああ、おはよう」
祐真はそっけなく返事を返す。無視をしたらしたで、またしつこく絡んでくるに違いない。嫌でもここは、返事をしておくのが得策だ。
「寝起きの祐真の顔も素敵だよ」
『彼』は、整った顔をキラキラと輝かせ、そう言った。祐真はげんなりする。
何も答えず、祐真は『彼』の脇を通り、トイレに向かう。その際、『彼』がこちらを見つめていることに気がついた。
「覗くなよ」
祐真は『彼』に釘を刺す。『彼』がここに住むようになってから、幾度となく覗かれそうになった。トイレのみならず、風呂もだ。
「わかってるよ。朝ごはん、もうできたから」
『彼』は、にこやかに笑って答えた。
トイレを済ませ、部屋に戻ると丸テーブルの上に、朝食が用意されていた。ベーコンエッグに、銀シャケ。そして味噌汁と白飯。不本意な同居生活だが、こいつは料理が上手い。重宝できる特徴だと思う。こいつは人間世界の料理を短期間でマスターしたのだ。
しかも食材の費用は、こいつ持ち。どうやって金銭を獲得しているか知らないが、経済面でも非常に助かっている。両親からの仕送はあるものの、充分ではなく、いつもギリギリなのだ。とはいっても、まだ食費が浮いて一ヶ月程度なので、充分に効果が発揮されてはいないが。
祐真は『彼』と丸テーブルを挟んで、朝食をとる。銀シャケを箸でほぐしながら、目の前の人物の顔をうかがった。
『彼』の名前はリコ=シュバルベルク=ノヴェチェシャドリコフ=スタヌスラヴェヴィッチ。本当はもっと長いが、覚えているのはここまで。名前からは、何となくロシア人のようなイメージを持つものの、もちろん違う。そもそも、人間ではない。
祐真は、リコの容貌を確認する。
リコは、この世の人間とは思えないほどの美貌を持っていた。精錬された彫刻のような端整な顔に、氷のように澄んだ目。そして、白い肌と美しい銀髪。銀髪はナチュラルマッシュ風に整えてあった。
まるで、ルーペンズの絵画から抜け出てきたようなリコの容姿端麗さは、リコと出会ってからこれまでつぶさに見ている。自分もそこは認めていた。だからといって、彼の事あるごとに行ってくる誘惑に従うことなど考えてもいないし、これから先、ありえないだろう。自分もリコも男なのだ。『自分は』男には興味はなく、恋愛対象はあくまで女だ。
リコと目が合う。リコはニッコリと微笑み、銀シャケの切り身を箸で摘んで、こちらに差し出してくる。
「はい、祐真、あーんして」
まるで恋人かのような行動に、祐真は嫌気が差す。
「やめろよ。気持ち悪い」
「だって、僕の手で食べさせたいんだよ。祐真の食べる仕草も可愛いし。なんなら口移しで食べさせようか?」
「却下」
祐真はピシャリと言い放つと、食事に戻る。毎度の如く行われるリコのアプローチに対するあしらい方も、随分と手馴れてしまった。それが、喜んで良いことなのか悪いことなのかはわからないが。
朝食を済ませ、祐真は登校の準備を行う。リコはまるで侍女であるかのように、手伝ってくる。これは助かるので、好きにさせるが、着替えだけは手伝わせなかった。
高校のブレザーに着替え、リコから弁当箱を受け取る。リコが作るようになってからは弁当持参だ。それまでは、購買のパンで済ませいていた。
祐真は玄関で靴を履き、扉を開ける。
「じゃあ、行ってくる」
それだけリコに言い、部屋を出た。リコは玄関口に立ったまま、光のような笑顔で手を振って見送っていた。まるで新婚夫婦だ。
溜息を一つつき、アパートの階段を下りる。通学路に入り、祐真は高校を目指して歩き始めた。
リコと出会ったのは、ちょうど一ヶ月ほど前の時だ。夏休みが終わり、暑さが少しずつ和らいできた頃。
祐真は、学校終わりに、勉強で必要な資料を探すため、地元にある図書館へと赴いていた。最初は学校の図書室で探したが、借り出し済みだったので、ここまで足を運んだのだ。
古い図書館だった。建物自体も大きく、蔵書量も相当ある。大抵の書物は見付かりそうだと思った。ましてや求めているのは、高校二年の演習問題である。すぐに済ませられるはずだった。
祐真は、閑散とした図書館で、目的のものを探す。時刻は夕方に差しかかっていた。他にも自分のような学校帰りの学生がいると思っていたが、驚くほど人は少なかった。
照明も古いせいか薄暗く、ホラー映画の洋館にでも入ったかのような、不気味な雰囲気が漂っていた。
目当ての数学の演習問題集は、すぐに見付かった。参考書関連の棚に収納されており、最近誰も引き出した形跡はない。
祐真は、その問題集を取り、手に持った。カウンターに行こうと足を動かしたその時、妙なものが祐真の目に止まった。
背表紙が赤く装丁された、ハードカバーほどの本。それが、参考書関連の棚に一冊だけ不自然に収納されていた。ジャンル的に似つかわしくなく、変に浮いて見えた。
目を近付けてみる。背表紙に金箔でタイトルが書かれてあった。
『サキュバスを召喚する方法』
図書館の職員が、児童書かホラー小説を間違えてここに入れ込んだのだろうか。祐真はそう思った。
そのまま無視しようとしたが、なぜかそれはできなかった。どうにも気になる。祐真は、その本を引き出した。
本は全体が赤い皮で覆われ、金色の文字が印字されてある。遠目ではただのハードカバーのように見えたが、こうして手に取って見ると、アンティークものの高い書物のように思えた。
中を開く。最初のページに、マイクロビキニのような露出の高い服を着た、十代後半ほどの美少女の絵が描かれていた。美少女にはヤギのような角と、蝙蝠のような羽が生えている。きわどい部分は上手く隠されてはいるものの、ほとんど全裸であり、扇情的だ。現代の萌え絵に近い。
さらにページをめくってみる。この本の解説があり、全て日本語で書かれてあった。翻訳したような不自然さがないのは、これが日本で製作されたからなのか。
さらにざっとページを捲っていく。途中、召喚の方法だろうか、挿絵での解説が描かれたページがあった。
そして、中央付近のページに、妙な文言が一文書かれてることを発見する。非常に目立たず、見逃すところだった。
『注意事項。召喚した対象の存在を秘匿すること。破れば罰がある』
召喚の際のルールか何かを説明した文章らしかった。なぜこんな目立たない箇所に書かれてあるかわからないが、意味も理解できないので、祐真は気にせず読み進める。
そして、ある程度目を通し、概ね内容を掴むことができた。
タイトル通り、これはサキュバスという悪魔を召喚するための指南書のようだ。名称等にも触れられており、正しくは魔道書と呼ぶらしい。『ソロモンの鍵』や『グラン・グリモワール』といった魔道書が有名で、悪魔や霊を召喚したり、呪いをかけたり等が主な使われ方のようだ。
祐真もゲームやアニメで何度か耳にしたことがあるので、何となくどういったものかは想像がつく。
そしてそれは、サキュバスという存在も同様だった。
サキュバスといえば、いわゆる淫魔である。夜中に、寝ている男性を襲い、性を吸う女性の悪魔だ。しかもそれはそれは、大変な美女らしい。
つまりサキュバスに狙われると、絶世の美女が、毎夜自身の貞操を奪いにくるという夢のような状況に陥ってしまうのだ。男なら誰だって、一度は想像したことがあるシチュエーションだろう。
祐真は、最初のページに描かれていた高露出の美少女の絵を思い出し、生唾を飲み込んだ。
あれがサキュバスを表した絵であることは、間違いがない。そしてつまり、この本は、あの可愛い女の子を召喚できるということを示唆しているのではないのかと思う。そして、召喚した暁には……。
祐真はそこまで考え、首を振った。
何を本気にしているんだ俺は。馬鹿馬鹿しい。
そもそも、サキュバスなんてもの、この世には存在しない。聞いた話では、男の夢精を無理矢理に理由付けした架空の悪魔らしいのだ。発祥は中世のヨーロッパで、その時代は禁欲主義であるため、射精一つで厳罰ものだという狂った風潮があった。その歪みが生み出した妄想だ。
つまり、この本は丸っきりフィクションである。当然だ。真実であるかどうかの考察にすら値しない。コックリさんの呼び出し方を記した、小学生向けのホラー漫画を本気にするようなものだ。ある程度の年齢に達すれば、そのような心霊や悪魔など実在しないというのは自ずとわかる。この世界は、現実を処理するのに精一杯で、非科学的な存在が付け入る余裕などないのだ。
祐真は、演習問題集だけを手に持ち、赤い本を元に戻そうとした。だが、不思議なことが起こる。
気がつくと、演習問題集と共に、赤い本を小脇に抱え、カウンターへと向かっていたのだ。何かに操られているかのように、足が勝手に動いていた。
二冊の本をカウンターに置き、それを受け取った図書館の職員が、貸し出しの処理を行う。
問題なく本は借りることができ、祐真は家路へと着いた。
こうして、祐真は、サキュバス召喚の本を入手したのだった。
サキュバスを実際に召喚しようとしたのは、それから三日ほど経った日の夜のことだ。
その頃には、サキュバスのことで頭が一杯だった。架空の存在だと自覚しているにも関わらず、なぜか目の前に現れるのを期待している自分がいる。不思議だった。
それに、調べた限り、あまりコストも手間も掛からないようだったので、試しにやってみてもデメリットはなさそうだと思った。話のタネにはなるかもしれない。
そして、もしも、万一召喚できたら、それから先、自分は薔薇色の人生を謳歌できるだろう。高校二年生の持て余している性欲を、存分に満たしてくれる存在が現れるのだ。まさに夢のような話だ。股間が空っぽになるまで、絞ってくれるはず。
祐真は、いまだ現れていないサキュバスのことを頭に想像する度に、思わずにやけていた。
祐真は、サキュバスの召喚に必要な物を揃えた。それらは、簡単に集めることができるものだったので、半日もかからなかった。
揃えた物は、一メートル四方の黒い布と供物となる生き物の肉(これはスーパーで売っている鶏肉で代用した)、主だと認識させるのに必要な召喚主の体の一部、そして暗闇とロウソク。
方法も単純で、黒い布に五芒星を描き、その中央にこの赤い本、手前左右に鶏肉と召喚主の体の一部(髪の毛でもいいらしいので、髪の毛を切って用意した)を紙に包んで置き、あとは魔法陣のそれぞれの頂点に、五本のロウソクを立てれば準備完了だ。
最後に部屋を暗くし、呪文を一説唱えれば、サキュバスを召喚できるという。
召喚に成功すると、五芒星に置いた肉や体の一部、そして本が消失するらしい。つまり捧げられたということだ。
祐真は準備を終え、部屋の照明を消した。闇が部屋を侵食する。時刻は深夜十二時。当然外はすでに日は落ち、差し込む光などない。このアパートは、閑静な住宅街に建っているため、物音も聞こえてこなかった。
祐真は、五芒星を見下ろす。儀式の小道具類は、闇とその中で霊魂のように光る燭火に照らされ、不気味さを醸し出していた。本当に召喚が成功しそうな雰囲気さえある。
祐真は目を閉じ、予め頭の中に刻み付けておいた本の中の一説を思い出す。これは召喚に必要な呪文だ。短く、簡単に暗記できた。
祐真は深呼吸を一つすると、その呪文を口に出した。
「アルス・マグナ」
再び静寂が訪れる。物音一つしない。
祐真は少し待ち、そして目を瞑ったまま思う。
駄目か。やはりこれは作り話だったようだ。
がっかりしながら目を開けた。先程より、ロウソクの炎が明るく見える。
その炎がさらに明るく光る。あれ? と祐真が怪訝に思った時だった。祐真の目がはっと見開かれた。
ロウソクが燃焼剤を投入したように、激しく燃え出したのだ。火は通常の倍以上の高さまで伸びている。
祐真は恐怖した。だがそれは心霊現象や儀式の影響によるものだとは考えず、純粋に火災へと繋がることを危惧した恐怖だった。
祐真は炎を消そうと、慌ててロウソクに飛びついた。だが、遅かった。炎は、黒い布に燃え移り、五芒星を描いた線の上をなぞるようにして燃え広がっていく。そして、置いてあった鶏肉や、祐真の髪の毛を包んでいた紙、赤い本をまとめて飲み込んで、燃え上がった。
キャンプファイヤーのように、炎が部屋の中を煌々と照らし始めた。
祐真は後方に後ずさりし、愕然とした。
とんでもないことになった。これは紛れもない火事だ。早く消防車を呼ばないと。
祐真の手が、ポケット内のスマートフォンへと伸びる。
その瞬間、不可思議な現象が起こった。
業火のように燃え上がっていた炎は突如として消失し、大量の煙が発生した。それは鎮火の際の煙ではない。ドライアイスのように、ひんやりとした真っ白な煙だった。どこか清浄ささえ感じさせる。臭いも焦げ臭くなく、薔薇を思わせる甘い香りが鼻腔をついた。
唖然としたままその光景を祐真は見つめた。体は硬直し、身じろぎができない。
何が起きている? 火はどうなった?
白い煙の中に人影が見えた。やがて、煙は晴れ、人影が鮮明になっていく。
祐真の目が点になった。この時の自分の顔を客観的に見れば、おそらく『ひょっとこ』のような情けない表情をしていたのだろうと思う。
それほど衝撃的な光景が、眼前に生まれ出ていたのだ。
煙の中から現れたのは、裸の人間だった。だが、希望していたサキュバスではなかった。男なのだ。そこにいたのは。
銀色の髪に、神話の世界から抜け出てきたような美しく端整な顔。体格は長身でスリムだ。中性的な雰囲気を纏ってはいるものの、れっきとした男だということは一目で確信が持てた。なぜなら、股間から一物が生えていたからだ。
その男は、こちらを見るなり、裸のまま抱きついてきた。
「ひい」
祐真は思わず情けない悲鳴を上げてしまう。唐突に訪れた怒涛のような展開に、思考が追いつかない。
祐真の混乱をよそに、裸の男は抱きついたまま、感極まった声でこう言った。
「ようやく会えた。もう離さないよ」
祐真は男の言葉の意味が理解できず、ただただ、茫然自失の状態で立ち尽くしていた。
これがリコとの出会いだった。
どうやらあの赤い本は本物の魔道書だったらしい。信じられないことだが、こうして不可思議なことが起こった以上、認めざるを得なかった。
裸の男が出現し、茫然自失の状態から幾分か回復した祐真は、目の前の男と話をする余裕が生まれた。男に服を与えたのち、話をする。
男は、自身のことをリコと名乗った。インキュバスだという。
インキュバスとは、サキュバスの男性版である。標的を女性とする男の夢魔なのだ。
そこで大きな疑問が生まれた。なぜ、インキュバスが召喚されたのか。自分はサキュバスを召喚したはずなのに。
その答えをリコはこう説明してくれた。
召喚方法を間違えていたから。
単純明快な理由だ。リコ曰く、祐真が行った召喚の儀式は、インキュバスを呼び出す形式になっていたようだ。
祐真自身、念入りに内容を確認してトライしたつもりだったが、誤りがあったらしい。具体的にどこをどう間違っていたのかは、もうわからない。召喚の際、例の赤い本は、鶏肉や髪の毛と共に消失してしまったからだ。
リコは、さらにいくつか説明を行ってくれた。
リコは自身をインキュバスと紹介した。そのインキュバスは、女性を対象に精を吸う淫魔であり、通常なら、男は興味の埒外である。
だが、リコは違っていた。
リコの興味の対象は男であった。そして、信じられないことに、祐真に一目惚れをしたと言うのだ。
それを聞いた祐真は、召喚された直後のリコの言葉を思い出した。あれはそんな意味だったのか。
だが、祐真には、同性愛の気はなく、いたってストレートである。いくら整った容姿の者が相手だとはいえ、男とは体を重ねたくない。ましてや、こいつは人ならざる者だ。とてもその気持ちなど湧かなかった。
祐真はリコにその気がないことをアピールしつつ、リコを元の場所へ戻す方法について質問を行った。
それには、ちゃんと方法はあるようだ。
リコは『召喚還し』について説明をしてくれた。
『召喚還し』とは召喚とは真逆で、召喚した悪魔や霊を『向こう側』に送り返す儀式であった。方法は召喚とほとんど同じで、ただ違う点は、送り還したい者を魔法陣の中に付け加え、そのための呪文を唱えれば実行されるらしい。
つまり、リコを『召喚還し』したければ、またあの赤い本を手に入れなければならないということだ。
説明が一区切りしたところで、リコはある行動を取った。それは、祐真が非常に困惑する行動だった。
リコは立ち上がり、祐真のそばへと近寄った。そして、自身の胸元のボタンを開け、胸板を露出させる。それから精巧なドールの如き目をこちらに向け、優しく囁く。
「祐真、君が欲しい」
「はあ?」
「つまり、今から君とエッチをしたいってこと」
リコの要求に、祐真は、千切れんばかりに強く首を振った。男とのセックスなんて冗談じゃない。
だが、祐真から強い拒否にあっても、リコは諦めなかった。
「可愛いね。緊張しなくても大丈夫だよ。僕が良くしてあげる。最初はただ、身を任せるだけでいいから」
「さっきも言ったけど、男には興味がないから!」
祐真の言葉に対し、リコは、大胆不敵な笑みを浮かべ、こう宣言した。
「今いくら拒否をしても無駄だよ。この先、必ず君は僕を受け入れる。そういう運命なんだよ」
「そんなことはありえないよ」
祐真は両手を大きく振りながら、否定した。なぜ、そこまで自信を持てるのだろう。リコは祐真から拒否にあっても、笑みを崩さなかった。
今しがたリコに通達したように、リコの誘惑に乗るなど絶対ありえないのだ。自分の興味の対象はあくまで女の子だ。しかも可愛い子。まかり間違えても、男になびくのは考えてもいない。
それとも、何か無理矢理にでもそうさせるつもりのなのだろうか。もしあるとすれば、実力行使か、あるいは……。
「リコ、この世界には警察という組織があるんだぜ」
祐真は、リコに警察という組織の役割について説明をした。
もしも、実際に通報し、リコが連行された場合、大騒ぎになるだろう。インキュバスの容疑者など前代未聞だからだ。だが、貞操や身の安全がかかっている以上、仕方がない。それに、祐真には何らかの容疑がかかるわけでもないから、リスクはないはずである。
しかし、リコは動じなかった。澄んだ瞳をこちらに向け、恐るべきことを口にする。
「僕がインキュバスだということが他の人間に発覚した場合『ペナルティ』があることに注意して」
聞き捨てならない言葉に、祐真は眉根を寄せた。
「ペナルティ? なにそれ」
祐真はリコに質問を行う。
リコはペナルティについて、こう説明をしてくれた。
悪魔や霊を召喚した際、それらを秘匿しなければならないという絶対のルールがある。そのルールは、遥か昔から存在し、破った場合は必ず執行されるようだ。
インキュバスの場合、その正体が、他者(別の召喚主を除く)に発覚してしまうと、召喚主は『向こうの世界』にあるインキュバスの国へ強制的に連行されてしまうらしい。そして、そこで彼らの従属物にされる。正確に言うと『性奴隷』としての運命が待っているというのだ。
『向こうの世界』にいるインキュバスの中にも、同性愛のインキュバスは少なくないらしく、そのため、男だろうと『性奴隷』にされてしまうようだ。ましてや、連行先は大勢のインキュバスが住んでいる国である。同性愛のインキュバスの数も必然的に多くなるだろう。
リコは以前『ペナルティ』を受けた人間たちの処遇を目にした時の話をしてくれた。
男も女も、一日中、インキュバスの慰み者になっていた。穴という穴を使われ、インキュバスの性器を口に含み続ける。見た目にはわからないが、魔術により、連続する性交に耐えられるように体を改造され、休むことすら許されなくなっていた。
性交に耐えられるようになったとはいえ、身体能力は人間のままである。そのため、逃げることも抵抗することも不可能だった。ひたすらインキュバスの性奴隷としての扱いを受け入れるしかない。生涯死ぬまでだ。
ちなみに召喚された側(この場合、リコ)も、力を奪われた挙句に、同じような処遇になるらしい。
リコ自身も、力を失いたくはなく、同種との性交は望まないので、リコ自ら正体を明かす真似はしないという。
そして、祐真は、リコの説明を聞き、鳥肌を立てながらも、ある光景を脳裏に浮べていた。
以前、読んだことがあるファンタジーのエロ漫画だ。その漫画には、美しいエルフの女性たちが、オークやトロールなどの化け物に拉致をされた挙句、陵辱されるシーンが描かれてあった。ある者は発狂し、あるものは快楽に身を任せている。おぞましい光景だ。
そのシーンと、リコの説明により待ち受けるペナルティのシーンが、重なった。
相手がサキュバスならまだしも、インキュバスなら、漫画の中のエルフたちと境遇は変わらないだろう。陵辱の世界が待っているに違いない。
だがしかし、ある疑問が首をもたげる。こいつが言っていることが事実である確証はないのだ。祐真を逃さないためのブラフである可能性があった。
リコは、祐真のその疑問を表情から読み取ったようだ。発言を行う。
「魔道署にそのことが記されていたのを覚えていない?」
リコに言われ、祐真ははっとする。目立たないように書かれてあった例の一文が、頭の中に呼び覚まされた。
『注意事項。召喚した存在を秘匿すること。破れば罰がある』
間違った召喚をしたものの、あの赤い本は本物の魔道署だった。実際に、人ならざる者を召喚できたからだ。
つまり、あの本に書かれてあったことは、事実だと認識してもいいのではないだろうか。
とはいえ、確たる証拠がない。リコが都合のよいブラフをついている可能性も依然、高いのだ。
祐真は首を横に振る。
「やっぱり信じられないよ。自分で呼び出しておいてなんだけど、ここには置けない。出て行ってくれ。そうじゃないと警察を呼ぶから」
リコの整った目が細まった。祐真は身構える。激怒するか、もしくは襲いかかってくるか。
だが、リコはあっさりと頷いた。
「そう。わかった。それじゃあ僕は退散するから」
そう言うと、リコは立ち上がり、あっさりと部屋を出て行く。
リコが玄関扉を閉めた途端、急に部屋が静かになった。時が止まったように、ひんやりとした夜のしじまが祐真を包む。
祐真は、しばらくぼんやりとしていた。
こうしていると、つい今しがた、怒涛のように起きた非現実的な出来事が、夢ではないかと思えてくる。
だが、床に残された召喚の儀式の跡を見ると、決して夢ではないのだと理解させられてしまう。
やがて祐真は立ち上がり、床を片付けた。それから、風呂場でシャワーを浴び、そのあとすぐ就寝に就く。
時刻はすでに丑三つ時に差し掛かり、疲労はピークに達していた。現実離れした現象を立て続けに体験し、頭の中もごちゃごちゃと濁ったスープのように混沌としている。
ベッドに入った祐真は、たちまちすぐに眠りへと落ちていった。
コトリと音が聞こえた。
祐真はふと目を覚ます。怪しさを感じ、目を擦りながら、祐真は体を起こした。眠気がヘドロのように、脳裏にこびりついていた。
辺りを見回す。除夜灯の薄暗い光が、1Kの部屋をぼうっと照らしていた。テレビの周囲に鎮座している愛しのフィギュアたちも、もちろん顕在。つまり、寝る前と特に景色に変化はなかった。
奇妙な物音が聞こえたが、一体何だったのだろうか。気のせいか。
祐真が再び眠りに就こうとしたとき、また音が聞こえた。今度ははっきりと、玄関から。床を踏みしめるような。
祐真は、ベッドから降りて、明かりを点けようとした。そこで、いつの間にか、目の前に人影が立っていることに気がつく。
祐真が恐怖に目を見開いた瞬間、天地がひっくり返った。わけもわからず、今しがた出たばかりのベッドへうつ伏せに倒れ込む。それから、警察が犯人を確保するように、右腕を背中側に取られ、ベッドへ押さえつけられた。
祐真は息を飲む。先ほど目の前にいた人影の仕業だ。力は強く、身動きが一切できなくなった。少しでも抵抗すれば、右腕がひどく痛むのだ。
一体、誰だ? リコか? しかし、シルエットは、リコより背は低かったが。
突如の出来事に、祐真は恐怖と混乱に襲われた。
頭上から、声が聞こえる。ハスキーな声質。男のものだ。
「羽月祐真ですね? 当該ケース56により、インキュバス部隊捕縛員である私が、あなたを拘束しにきました」
祐真をねじ伏せている人物は、そう言った。
男の口からインキュバスという言葉が発せらたため、祐真はさらに混乱に見舞われる。リコから直接聞いた『ペナルティ』の内容が、脳裏に蘇った。
この人物は、インキュバスなのか。そして発言の通りなら、リコや魔道書の警告は正しかったということになる。
突如、部屋が明るくなり、祐真は目を瞬かせる。どうやら、この人物が部屋の照明を点けたらしい。祐真の背中に乗っているのに、どうやったのだろう。
祐真は、首を捻り、何とか背後の人物を確認した。
そこには、一人の少年がいた。自分と同じくらいの年齢に見える。
耳までかかったさらりとした銀髪に、白い肌。顔はハリウッドの子役のように整っている。外見的特徴から、リコとの共通点がみられるため、インキュバスと判断していいだろう。ただ、目は豹のように鋭いが。
インキュバスは言う。
「私の名前はアネス=キャプト=ホード。向こうの世界からやってきたインキュバスです。あなたは魔道書を使い、インキュバスを召喚した挙句、即座にインキュバスを放逐しました。よって、あなたを不穏分子として認定、我々の部隊の元まで連行する旨を伝えます」
アネスと名乗るインキュバスは、そう宣言した。
祐真は愕然とする。頭が真っ白になり、息が荒くなった。
「ちょっと、待って! 連行は、インキュバスの正体が発覚したら行われるんだろ? 俺は、部屋から追い出しただけだ」
アネスは首を振った。
「暴露危惧を作るのも、はっきりとした拘束及び、連行要因です。あなたは召喚したばかりのインキュバスを、不用意に放逐しました。これは看過できない行動です」
「だけど……」
祐真はかすれた声で反論しようとするが、上手く言葉が出ない。
アネスは、重ねるように主張を伝える。
「言い分は向こうで聞きますので、大人しくしなさい」
「連行されたらどうなるの?」
「取調べが行われて、有罪の証拠が固まったら、裁判にかけられます。もっとも、当該ケースの場合、確実に有罪になりますが」
司法機関のシステム自体は、こちらの世界と大きく変わらないようだ。だが……。
「もしも有罪になったら?」
アネスは答える。どこか、高揚したような口調になった。
「インキュバスの存在を発覚させる真似をした場合、監禁刑が言い渡されます。我々インキュバスの慰み者として一生を終えてもらいます。これは召喚したインキュバスから説明がなかったのですか?」
聞いている。聞いているのだが、いまいち実感が湧かないのだ。今現在、その危機に直面していることが。
こちらの恐怖にまみれた表情を読んだのか、アネスは優しい口調になる。拘束している腕も、若干緩んだ。
「安心して下さい。慰み者になったとしても、不幸じゃありませんから。今までの人間たちは皆、最終的には全てを受け入れて、『性奴隷』の人生を楽しんでいますよ。きっとあなたも、『向こう』の生活を気に入ります。もっとも、与えられた快楽のせいで精神が崩壊し、否が応でも順応した者も少なくありませんが」
アネスはとんでもないことを言う。
冗談ではなかった。慰み者だなんて、そんな戦時中の捕虜のような扱い、真っ平御免だった。あまりに非人道的すぎる。
しかし、それならばどうやって、この状況から逃げ出そう。警察を呼ぶにしても、スマートフォンは枕のそば、離れた位置にある。この状態だと届かない。
それとも、大声を出すか。しかし、夜中にもかかわらず、先ほどから声や騒音を出しても、近隣から何の反応もないのは不思議だ。
アネスは、祐真の心を読んだかかのように、アイドルのような爽やかな笑みを浮かべた。
「大声を出しても無駄ですよ。この部屋は『一時隔離』してますから。声は隣にも届きません」
アネスの口から聞き慣れない単語が出て、祐真は困惑する。『一時隔離』とは一体何だろう? 本当に声が届かないのか。
不可解な説明を終えたアネスは、唐突に口調をがらりと変えた。猫なで声だ。
「それはそうと、祐真君、君とても素敵な男の子だね」
アネスは片方の手を伸ばし、こちらの頬を撫でた。アネスのしなやかな指の感触が、頬から伝わってくる。
このインキュバスもリコ同様、男が性的対象らしい。祐真は強い恐怖にかられる。
「やめろ! 誰か助けて!」
祐真は叫んだ。それから、アネスの手から逃れようと、大きくもがく。
しかし、無意味だった。見えない拘束具で固められているかのごとく、がっちりと体がホールドされているのだ。不思議な感覚だった。
それに、先ほど祐真が上げた悲鳴。確実に隣の部屋に聞こえているはずなのに、一切リアクションがなかった。これもアネスの言う『一時隔離』のせいなのか。
アネスの上擦った声が聞こえる。
「監獄で玩具にされるにはもったいない逸材だね。壊される前に、ここで味見するのも一興か」
アネスは祐真のズボンに手を伸ばす。やがて、そのズボンが脱がされ始めた。
祐真は瞬時に、自身が何をされるのか悟った。一気に血の気が引く。恐慌にかられ、体を暴れさせながら逃げようとする。
だが、相変わらず、体は硬直したままで、ねじ伏せられた状態から脱することはかなわなかった。
「大丈夫。不安がらないで。必ず君を気持ち良くさせるから。あわよくば、私の虜になったら、このまま君を私の家に連れ帰って……」
ズボンがずらされ、臀部が露出しかける。祐真の恐怖は跳ね上がった。
その時だった。
「待った」
聞き覚えのあるクリスタルボイス。玄関のほうからだ。この声はまさか……。
祐真が顔を向けると、そこにはリコが立っていた。アネスも凝視している。
「僕の祐真にそれ以上の狼藉は許せないよ」
リコは真剣な面持ちでそう言った。切れ長の目が、朱に染まっていることが見て取れた。リコは激怒しているのだ。
リコの刃物のような鋭い眼光を受けながらアネスは、リコを睨みつけた。
「リコ=シュバルベルク=ノヴェチェシャドリコフ=スタヌスラヴェヴィッチ。いとも容易く『一時隔離』を突破しますか。その上で、拘束対象のインキュバスにも関わらず、のこのこと姿を現すとは、どんな心境で?」
アネスは挑発的な物言いをする。リコは肩をすくめた。
「拘束対象? おかしな話だね。我々は何ら禁忌を犯していないよ」
「召喚直後、召喚主が召喚者を放逐することは、危険要因です。拘束対象なのはケース56により明らかです」
リコは、ニヒルな笑みを浮かべた。
「放逐? 誤解だよ。僕は周辺の安全を確認するために、この部屋を出ただけさ。僕の存在を秘匿するための必要な措置だ。その証拠に、こうして戻ってきただろ? もちろん、誰にも僕の正体は気づかれていないよ」
「おためごかしを。そんな戯言、信じると思っているのか。あなたも拘束します。大人しくなさい」
アネスが宣言する。リコは、小さく息を吐くと、一歩、こちらに近づいた。
「もう一度言う。我々は禁忌を犯していない。だから、祐真から離れるんだ」
「拒否します。あなたと共に、祐真も連行します」
リコは、おもむろに、手の平をアネスへと向けた。目が獲物を狙う鷹のように、鋭くなっている。
「いいのかい? 血みどろの光景が展開されるよ。捕縛部隊隊員さん。あなたに対処できるかな?」
なんだか、部屋の温度が、一気に氷点下まで下がったような気がした。空気が張り詰めている感じだ。祐真の体に触れているアネスの手からも、動揺が伝わってくる。
「我々を敵に回すつもりですか?」
「元より、だよ」
少しの間、二人はこう着状態に陥る。武道の試合のように、お互い相手の出方をうかがいながら、対峙しているのだ。
やがて、ふっと祐真の体が軽くなった。アネスがこちらを解放したのだ。
捕縛部隊のインキュバスの手から逃れた祐真は、慌てて脱がされかけていたズボンを上げると、立ち上がった。そして、掴まれていた腕を擦りながら、リコのそばに駆け寄る。
リコは、見る人誰もが安心するような笑みを祐真に向けた。
「大丈夫かい?」
リコは、優しくこちらの肩に手を触れた。戸惑いながらも、祐真は抵抗しなかった。
「う、うん」
祐真はアネスのほうを見る。
アネスはゆっくりと立ち上がり、こちらに体を向けた。逆ボブにも似た耳までかかった銀髪が、ふわりと揺れる。
アネスは口を開いた。
「わかりました。いいでしょう。今はその戯言を聞き入れることにします。ただし、くれぐれもインキュバスの正体が発覚しないよう注意してください。召喚と関係ない一般人に知られた場合、即刻、部隊を率いてあなた方を捕縛しますので」
リコは肩をすくめて応じる。
アネスは泰然自若のリコを一瞥すると、ベッドのそばを離れて歩き出す。やがて、リコと祐真の真横をすり抜ける。玄関に向かうのだろう。
すり抜ける時、アネスは言葉を発した。今度は、リコではなく、こちらに向けて。
「一つあなたに警告です。魔道書を使い、召喚の儀式を行った以上、インキュバスとあなたは切っても切れない関係になりました。つまり、生涯あなた方は共に生きなければならないということです。どちらか一方が死ぬか、『召喚返し』をしない限り。その点を重々承知の上、行動してください」
アネスはそう言うと、二人の横をすり抜け、玄関へたどり着く。そして「それでは」と言い残し、部屋を出て行った。
張り詰めていた緊張が、ふと解ける。どさりと音がしそうだ。
祐真はなおもアネスが消えた玄関を見つめていた。すでに思考は混沌とし、何がなんだかわからず、心の中に不安と恐怖が堆積している。
「大丈夫?」
こちらの様子をうかがっていたリコが、気を遣うように顔をのぞき込んできた。
「安心して。僕がずっと君を守るから」
そう言われても、素直に納得できない。祐真は顔を背けた。現在のトラブルの原因は、紛れもなくこいつなのだ。
祐真の反応を見て、リコは懸念を理解したらしい。祐真の頭を優しくなでる。
「今更悩んでもどうしようもないよ。いずれにしろ、君と僕は結ばれる運命なんだから」
また意味不明なことをリコは口走る。
リコは続けた。
「だから、今から君を僕が慰めてあげる。祐真は何もしなくていいから」
祐真はリコの手を振り払った。そして、ベッドへと行き、毛布を被る。
毛布越しに、リコの視線が突き刺さっていることが、感覚としてわかった。
毛布に埋もれたまま、祐真は、深く思案する。
これから先、前途多難ではないかと愕然としていた。
もしもリコをこの部屋から追い出し、金輪際関わらないようにしても、先ほどと同じように『ペナルティ』の危険は付いて回る。むしろその状況だと、発覚のリスクは大きくなるだろう。
かといって、同居するにも、常に今のように貞操を狙われる恐れがある。
いずれの道を選んでも、祐真の身が危ういことに変わりはないのだ。その上、それは、リコがこの世界に存在している限り、ずっと続く。間違った召喚をした祐真に責があるとはいえ、あまりにも不条理だ。
アネスの言葉が記憶に蘇る。
それらを解決する唯一の方法が、『召喚還し』だ。
祐真は思う。
少しでも早く、またあの召喚の本を手に入れ、リコを送り還さなければ。
なおもベッドの外から祐真の体を求めてくるリコの声を無視しながら、祐真は自らの心にそう誓った。
こうして、祐真とリコの奇妙な共同生活が始まったのだ。サキュバスを召喚しようとしたら、間違ってインキュバスを召喚してしてしまったばかりに。
やがて一ヶ月が過ぎた。その間も、数々のリコによる誘惑をかわしながら、祐真はインキュバスとの奇妙な同居生活を続けていた。そして、例の赤い召喚の本を入手するために手を尽くした。
だが、目下のところ、その本が見付かる気配がまるでなかった。
絶望である。
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