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第七章 退魔士 風川花蓮
花蓮は、探索を終えた喜屋高校をあとにし、JRを使って隣の市にある君津駅へと到着した。自身が泊まっているビジネスホテルがこの市にあるからだ。
駅を出た花蓮は、繁華街のほうへ向かう。ホテルに戻る前に、少しだけ街をぶらつきたかった。おぞましい淫魔の臭気を嗅いだため、浄化したい気持ちがあった。
現在の時刻は、午前零時前を指している。未成年はすでに眠る頃だが、繁華街は盛況であった。
花蓮は秋口の夜風と、繁華街の猥雑な空気を肌で感じながら、メインストリートを歩く。すれ違うのは酔客や、水商売の女たちばかりだが、彼らや彼女らからは、淫魔の臭いはしなかった。
少しずつ、気持ちが落ち着いていくのを実感した。
ちょうど、飲み屋が集中している界隈に差しかかった時だ。誰かから呼び止められた。
「ねえ君。ものすごく可愛いね。どこからきたの? 若く見えるけど、まさか高校生じゃないよね?」
声をかけてきた人物のほうを花蓮は確認する。相手は茶髪でスラックス姿の男だ。外見からして下品で、愚者の臭いがする人物であった。
花蓮は無視し、足を進めた。
「待ってよ。今からちょっと遊びにいこうよ」
男は追いすがった。それでも花蓮は相手にせず、歩き続ける。
「待ってってば。話くらいしようよ」
そこで男は、こちらの右肩に手を置いた。
花蓮の全身に、鳥肌が立つ。血脈のような怒りと、吐き気を催す嫌悪感が、胸の奥底から湧き上がってきた。
だが、花蓮は大きなリアクションをせず、男へとゆっくり振り向いた。
花蓮は、静かに微笑んだ。
「誘いに応じてくれてよかったよ。さっそくラブホなんて、花蓮ちゃんも好きなんだね」
男と一緒に、近場のラブホテルの一室に入った花蓮は、鼻をひくつかせた。
ここはおぞましい場所だ。男女が性交を行うための汚い吹き溜まり。先ほどから性欲の臭気が凄まじい。
この男を『成敗』するためにあえて入ったが、後悔していた。別の場所で事を行えばよかったのだ。わざわざ相手に期待させ、それから追い詰めるような手法を取ったのは、淫魔の臭いを嗅ぎ、気分がささくれ立っていたせいかもしれない。
「先にシャワー浴びる? それとも一緒に入る?」
すっかりこちらを垂らし込めたと確信している男は、意気軒昂としていた。鼻息荒く、発情しているのだろう。盛りのついた雄犬のごとく。
花蓮は首を振ると、奇妙な形をしたベッドへ男をそっと押し倒した。男は嬉しそうな声を上げる。
「さっそく? 本当に花蓮ちゃんはエッチなんだね」
男の顔が、好色そうに歪んだ。一気に、身体から欲情した臭気が放たれた。とても不愉快で、花蓮は鼻柱を歪めそうになるのを我慢する。
男は、こちらを抱き寄せようとした。そこで、花蓮はすっと立ち上がった。
男は怪訝な面持ちになる。
「どうした? 早くしようよ」
男は体を起こし、こちらに手を伸ばした。腕を掴み、引き寄せ寄せるつもりだろう。
花蓮は男が腕に触れるよりも前に、指を鳴らした。いわゆるフィンガースナップ。軽快な音が、淫靡なデザインの部屋に響き渡る。
男は動きをピタリと止め、一瞬だけきょとんとした表情をみせたが、やがてすぐに目を見開いた。
自身の周囲に、奇妙な物体が現れたのを確認したからだ。『それ』はベッドから複数体生えていた。
『それ』は、黒い蛇の形をしていた。しかも、成人男性の腕ほどの太さを持ち、体長も人の背丈ほどもある。
その生物が、鎌首をもたげ、男を取り囲んでいるのだ。
「なんだこいつら!?」
男は怯えた声を発する。腰が抜けて、立ち上がることができないようだ。
ゆっくりと、黒い蛇は男へ迫る。男はハエを追い払うように、腕を振った。だが、黒い蛇は素早く男の腕に組み付いた。
「ひっ……」
次々に黒い蛇は、男へと絡み付いていく。やがて、男はベッドの上に貼り付けになり、拘束される形となった。
花蓮は、男を見下ろしながら、告げた。
「調子に乗りすぎたせいね。観念しなさい」
男は、恐慌状態になりながら叫ぶ。
「お前の仕業か! なんなんだよこれ!」
花蓮はふと気づいた。男が履いているスラックスの股間部分が濡れていることに。恐ろしさのあまり、失禁したようだ。粋がっている割には、ちんけな玉の持ち主らしい。なんとも滑稽だ。
「邪な欲望を私に向けたことを後悔しなさい」
そう言うと、花蓮は手を上げた。さっさと仕上げよう。
ベッドへ貼り付けになっている男の頭頂部側から、新たに巨大な影が立ち上った。一際大きな黒い蛇だ。アナコンダほどもあるだろう。
その蛇が、舐め回すように、男を見下ろしている。男は、もはや、叫ぶことも怯えた顔をする余裕もないようで、絶句している。
漆黒の大蛇は、勢いよく男に喰らい付く。まるでカエルか何かのように、大蛇は男を丸呑みにした。
大蛇の腹の中から、男のくぐもった悲鳴が聞こえてくる。今さら大きく暴れているようだ。だが、もう遅い。
次第に男の声は小さくなっていく。やがて、男の声は完全に聞こえなくなった。
花蓮は満足気に、大きく息を吐く。性欲に支配された醜悪な人間は、やはり『処理』するに限る。
花蓮の脳裏に、インキュバスの姿がよぎった。『羽月祐真』が召喚したらしき、まだ見ぬインキュバスのシルエット。
楽しみだ。淫魔を狩るのは久しぶりだが、一体どんな断末魔を聞かせてくれるのか。
花蓮は高らかに笑った。
休日の土曜の朝。祐真はJRを使い、隣の市にある君津駅へと降り立っていた。
今日の遠征は、彩香から教えられた図書館を訪ねるためのものだ。上手くいけば、魔道書を入手できる可能性がある。
今日は休日であるため、本来、昼まで寝ている祐真だったが、朝、頑張って早起きをした。リコは目を丸くし、しかも出掛ける準備を始めたので、行き先を知りたがった。祐真は適当に誤魔化し(リコも彩香の話を聞いているので、ある程度察しているかもしれないが)朝食もそこそこに、部屋をあとにしたのだ。
君津駅の南口から外へ出た祐真は、市役所方面に向かって歩き出す。君津中央図書館は、駅から十分ほどの目と鼻の先の場所にある。
祐真は魔道書が図書館に存在していることを期待しながら、道を進む。休日にも関わらず、人通りと車は少なかった。
途中にあるショッピングモールを通り過ぎ、やがて祐真は、図書館へと到着した。
図書館の中も、どこか閑散としていた。この図書館は、県内でも蔵書量も広さも随一らしいのだが、なぜか利用者は少なかった。何か理由でもあるのか、普段からこうなのかはわからない。だが、祐真としては好都合なので、気にしないことにする。
祐真は魔道書の探索に着手した。端末機で検索してもヒットはしないだろうから、しらみつぶしに探すしかない。特徴的な外観の書物なので、目には付きやすいはずだ。だが、この蔵書量を考えると、今からでも眩暈がする。
祐真は近くの本棚から捜索を開始した。
結論を言うと、魔道書の捜索は全くの無駄骨に終わった。昼過ぎまでかかってほとんどの本棚を調べたのだが、それらしき本は発見できなかった。
祐真はがっくりと肩を落とし、図書館を出る。
駅へと戻る最中、途中にあるショッピングモールへと祐真は寄った。遅くなった昼食をとるためだ。
モール内にあるファストフード店にて、祐真はハンバーガーセットを頼む。二人用の席に腰掛け、気落ちした気分のまま、安っぽいパンと薄いパテを口に運んだ。
結局、魔道書は発見できず、情報すら入手できなかった。彩香はあの図書館で魔道書を見つけたと言っていたが、今日訪れた限りでは、ただの図書館と変わらなかった。本当にあそこにあったのだろうか。
もっとも、祐真が手にした魔道書も、再度同じ図書館を訪れた際には、影すら存在しなかった。今回の状況と類似している。
元来、魔道書とはそのようなシロモノなのかもしれない。以前も散々、躍起になって探しても発見できなかったのだ。祐真や彩香が魔道書と邂逅できたのは、極めて稀な事象であるかもしれなかった。
これで振り出しに戻ったわけだ。依然、手掛かりはなく、『召喚還し』のチャンスは遠のくばかり。なおも淫魔であるリコはこの世界に存在していて、『ペナルティ』の危険は付いて回っている。
祐真はため息をつき、ハンバーガーの最後の一切れを口に放り込んだ。そして、フライドポテトに手を伸ばす。
ふと、そういえば、こうしてファストフードを食べるのは久しぶりだなと思った。ここ最近は、全てリコが食事を作っていたため、外食自体頻度が減っているのだ。
ハンバーガーセットとはまるで違う、バランスの取れたリコの手料理。味も悪くはなかった。学校の弁当も含めて、彼は無償で(むしろ手出しして)毎日律儀に食事を作ってくれている。
食事だけではない。家事全般、彼は喜びながらやっているのだ。祐真にとって、それは非常にありがたい行為であるが……。
祐真がそこまで考えた時だ。突然、正面の椅子に誰かが座った。許可も取らず、勝手にだ。驚いた祐真は、はっとして、相手に目を向けた。
そこで、自身の胸の鼓動が少しだけ高鳴ったことを自覚する。
目の前の席に座った人物は、一人の少女だった。高校生くらいだろうか。小柄で、髪はミディアムヘア。小動物のような小さな顔と、パッチリとした目は、どこかのアイドルのような可憐さがあった。
とても可愛い女の子だ。どうしてこの席に座ったのだろうか。席を間違えたのか。少し嬉しいトラブルである。
祐真はドギマギしながら声をかけた。
「あの、どうしたの。ここは俺の席だけど……」
少女は答えない。二重の目が、こちらを直視している。
祐真は、気後れしながら、少女の姿を改めて観察した。一見すると、可愛い普通の女の子だ。カットソーにショートパンツという服装も、特別変わったものではない。
ただ、癖なのかわからないが、スンスンと匂いを嗅ぐような仕草を取っていることが、妙といえば妙だったが。
目の前の女の子は、ハンバーガーショップにも関わらず、手にはトレイも何も持っていなかった。そして、獲物を狙うような視線。
祐真はふと悟る。これは、席を間違えたというよりは、もしかして……。
少女は沈黙を破り、やおら口を開く。
「あなた羽月祐真君?」
鈴の音のような綺麗な声が耳を撫でる。どうやら、祐真のことを知っていて絡んできたらしい。
「そうだけど、君は誰?」
こんな可愛い子のことは知らなかった。どこかで会っていれば、必ず記憶に残るはずなのだが……。嫌な予感がする。
祐真のその予感は的中した。
少女は答える。
「私の名前は風川花蓮。退魔士よ。推進派のね」
『退魔士』という単語に、祐真はすぐにピンとはこなかった。しかし、最近、耳にした記憶が蘇り、理解の兆しが訪れる。それに従い、祐真の心臓が早鐘のように鼓動を打ち始めた。
やがて少女は、決定的な言葉を口にする。
「ねえ祐真君。あなたの近くに淫魔がいるでしょ?」
祐真は息を飲んだ。まずいと直感する。この人物は、魔術関係者だ。
脳裏に『ペナルティ』の文字がチラついた。なぜ、花蓮と名乗る自称退魔士は、こちらが淫魔を召喚したことを知っているのか。
急速に緊張が高まってくるのを感じた。さっさとここを離れないと。
「安心して。君をどうこうしたいわけじゃないから。私はただ……」
花蓮の話を最後まで聞くことなく、祐真はフライドポテトを残したまま、トレイを持って立ち上がった。
即座に席を離れる。この少女と関わっていては駄目だ。
「ちょっと待ってよ!」
花蓮の声が響き渡る。周囲の客が何事かと、こちらに注目するが、祐真は気にせず出口へと向かった。
出口付近にある回収カウンターでトレイを片付けると、祐真は店舗を出る。背後から花蓮が追ってきていることが気配でわかった。
「待って。祐真君」
花蓮の声を無視し、ショッピングモール内の廊下を足早に歩く。すれ違う人間たちが、まるで恋人の痴話喧嘩でも見るような目で、視線を向けてくる。
祐真は通行人の反応を無視し、歩き続けた。やがて、ショッピングモールを出た祐真は、歩道へと足を踏み入れ、駅を目指して進んだ。
そこで祐真は突然、何かに躓いて、転んでしまう。とっさに手を付き、顔面を強打することは避けたものの、恥ずかしい失態だ。
こんな時に限って、一体、何に躓いたのだろうか。木の根のような感覚だったが。
祐真は、膝を付いたままの状態で足元を確認する。だが、躓きの原因になった物体は見当たらなかった。平坦な石畳が存在するばかりだ。めくれているとか、そういう箇所もない。
不思議に思っていると、頭上から言葉が降りかかった。
「だから待てって言ったでしょ」
花蓮は腰に手を当て、膨れっ面をした。
祐真は理解する。おそらく、転倒したのは、花蓮の仕業だ。詳細はわからないが、魔術の類を使ったのだろう。
祐真は膝を払いながら、立ち上がった。眼前に花蓮を捉え、逡巡する。どうやら逃げるのも難しいらしい。
しかし、コンタクトは取りたくなかった。相手は、淫魔の情報を知っている魔術関係者だ。こっちは常に『ペナルティ』の危険が付いて回っている一般人。決して関わってはいけない相手である。
「観念しなさい。羽月祐真。あなたが淫魔と繋がりがあることは掴んでいるんだから。だけど、今日あなたと会って、色々とおかしな点があることも気づいたの。それを知りたいのよ」
花蓮はそう訴える。
こうして名前まで知られている以上、色々とこちらの情報を把握していると考えていいかもしれない。下手をすると、住居まで知られている恐れもあった。
祐真は花蓮の顔を見る。花蓮は微笑を浮かべた。ジュニアアイドルがテレビ画面で見せるような、少女的なチャーミングさがあった。
「ねえ、私と今からお話しようよ」
まるで逆ナンでもしているかのように、花蓮は誘ってくる。祐真はたじろいだ。接した限りでは、危害を加える人間には見えないが、『ペナルティ』の存在がある。誘いに乗ったら終わりだろう。かといって、逃げるのも難しい。
祐真が尻込みしていると、花蓮は諭すような口調になった。
「なにか勘違いしているみたいだけど、私は……」
花蓮がそこまで言った時だ。誰かが声をかけてきた。
「ねえ、さっきから君たちトラブってるみたいだけど、大丈夫?」
声をかけてきたのは、二人の男だった。大学生くらいか。一人はパーカー姿で、もう一人はジャケットを羽織っていた。二人共髪を明るく染め、ガタイもよかった。全身の雰囲気から、少し柄が悪い印象を受ける。
「困っているなら助けようか?」
パーカーの男が、肩を揺らしながら訊く。目線は花蓮に向けられていた。爬虫類のような、粘り気のある目。欲望が混在していることが透けて見えた。
おそらく、この二人の狙いは花蓮だろう。高校生ほどのカップルの痴話喧嘩かトラブルを目撃し、女のほうの容姿が端麗なため、あわよくば男のほうを追い払い、女を物にできないか――。そのような考えを持っているようだ。なにせ、祐真のほうはオタク同然の外見をした弱そうなガキである。
しかし、肝心の花蓮は、男たちが存在しないかのように振舞った。
「向こうで話をしようか。祐真君」
花蓮が祐真の手を取り、歩き出そうとする。そこでパーカーの男が、花蓮の腕を掴んだ。
「無視するなよ。助けてやるって言ってんだ。失礼だろ」
男に腕を掴まれた花蓮は、顔色を変えた。男はそれに気づかず、言葉を続ける。
「そんな男放っておいてさ。奢るからカラオケ行こうよ。君の友達も呼んんでいいからさ」
パーカーの男は慣れ慣れしく、花蓮の肩に手を回した。ジャケットの男は、ニヤニヤとした笑みをこちらに向けている。花蓮が抵抗しないため、自分たちを受け入れたと思い込んでいるようだ。
花蓮は祐真から手を離すと、男たちに向き直った。それから、白い歯をのぞかせて、ゆっくりと微笑む。
「あなたたちには罰が必要みたいね。こんな薄汚い『臭い』を振り撒いているんだから」
花蓮は、よくわからないことを口走る。男たちも理解できないらしく、呆気に取られた表情になった。
そこで、異変が起きた。男たちの足元から、突如、黒い物体が立ち上った。まるで黒い蛇のような生き物。いや、生き物なのかすら不明だ。全部で八匹はいるだろうか。
祐真はすぐに悟った。これは魔術によるものだ。花蓮は白昼堂々、街中の路上で、魔術を行使するつもりらしい。
花蓮は指を鳴らした。
軽快な音と同時に、黒い蛇は、男たちの足元に飛びついた。そして、瞬く間に全身に巻き付いていく。その様は、獲物を絞め殺す大蛇そのもの。とても禍々しかった。
男二人は、同時に悲鳴を上げる。祐真は茫然と成り行きを眺めていたが、すぐに我に返り、周囲に目を配った。こんな場所で、常軌を逸した光景が展開されれば、大騒ぎになってしまう。動画でも撮影されようものなら、すぐさまアウトだ。
そこで、祐真は目を疑った。人通りが少ない場所とはいえ、昼間の休日である。そこそこの通行人が、路上を歩いていた。
だが、その誰もがこちらに注目していなかった。まるで見えていないかのように、日常の風景が広がるばかり。非日常のこちら側とは、陰と陽のように、くっきりと境界線ができているようだった。
これも魔術の力だろう。リコが以前、運動場で施した時と同様、認知をさせないような『何か』が発揮されているようだ。依然、メカニズムや方法などは不明だが。
黒い蛇はやがて、男たちを丸呑みにし始めた。悲鳴が絶叫に変わる。
祐真が見ることができたのは、そこまでだった。気がつくと、祐真は脱兎のごとく駆け出していた。恐ろしさのあまりに。
花蓮は追ってはこなかった。祐真は殺人鬼から逃げているかのように、息を切りながら走り続けた。
君津駅に到着した頃には、すでに走ることができなくなっていた。日頃の運動不足が祟ったせいなのか、息も上がっていた。
周囲の人間が、徒競走後のように汗だくになっている祐真を訝しげな顔で見てくる。どうやら認識をされなくなる効果は切れているらしい。逆にこれはこれで恥ずかしい。
祐真は汗を拭い、足早に駅構内へと入った。できるだけ迅速に、この場所を離れたほうがいいだろう。
ちょうどやってきた列車に乗り込むと、祐真は君津駅をあとにした。
アパートへと戻るなり、祐真は遭遇した『退魔士』のことについてリコに話をした。一人の少女に淫魔の存在が発覚してしまったことや、地獄絵図が展開されたことなど。
掃除中であったリコは、箒を手に持ったまま、しばらく思案した。整った眉宇に少しだけ皺が刻まれる。
やがてリコは、口を開いた。
「退魔士か。ここにきて、厄介な相手が現れたものだね」
リコは肩をすくめ、のんびりとそう言った。
祐真は唾を飛ばしながら、激昂する。
「なに呑気なこと言ってんだ。お前の存在が発覚しているんだぞ。『ペナルティ』を忘れたのか」
リコは箒を床に置くと、宥めるようにこちらの肩に手を置いた。
「落ち着いて祐真。今のところは『ペナルティ』について、それほど心配しなくていいと思うから」
「なぜ?」
「君の話を聞く限り、花蓮と名乗る退魔士は、僕の存在を確実に掴んでいるわけではないはずだよ」
「あの女は、俺が淫魔と一緒に暮らしていることを知っていたぞ」
リコは首を振った。
「多分、そこまでは把握していないんじゃないかな。彼女は『あなたの近くに淫魔がいる』と言っただけだよね? どういう方法を使ったのかはわからないけど、彼女は君の名前と大まかな住居の情報までは掴んだ。そして、駅を張り、現れた君を特定し、あとを尾行をしたんだ。それから頃合を見て、話しかけたってところが真相かな」
「どうやって俺をピンポイントで特定したんだ?」
リコは、肩をすくめた。
「そこまではわからない。けれども、君の姿を目にするまでは、祐真をはっきりと特定できていなかったんだと思うよ。つまり、容姿以外で、君を特定できる方法をその退魔士は持っていたんだ」
祐真は首を捻る。
「よくわからないよ。そんな方法あるの? 魔術?」
リコは話を続ける。
「かもね。少なくとも、そうでなければ、このアパートにダイレクトに乗り込んでくるはずだし、僕の存在まで知ったとするならば『淫魔』とは言わずに、『インキュバスと暮らしている』と発言するはずだよ」
祐真は、俯き、じっと考える。確かに、リコの言う通りかもしれない。全てを知っているのなら、もっと直接的な方法を取るはずだろう。
「だけど、このアパートまでたどり着くのは時間の問題じゃない?」
リコは、両手を広げて余裕綽々に言う。
「僕の情報統制力を舐めないで欲しいな。拘束部隊でもない限りは、何人でも、おいそれと僕らの住居まで辿れないようにしているから。多分、そのせいで花蓮はここまで探り当てられず、駅を張っていたんじゃないかな」
「だったら、今のところは花蓮は脅威じゃないってこと?」
リコは首を振った。
「『ペナルティ』に関しては、現時点では大丈夫だと思う。拘束部隊が現れていないのもその証拠だし。だけど、彼女が退魔士、しかも『推進派』という点が気掛かりだ」
「その推進派ってなに? そもそも『退魔士』ってなんだよ。前から名前だけは聞いていたけど」
「退魔士とは、名前の通り、『魔のモノ』を退治する専門のハンターさ。相手は悪魔であったり、淫魔であったり多岐に渡るけど、僕にとっては敵でしかない相手だね」
「推進派って?」
「退魔士にも色々と派閥があって、『推進派』はより積極的に魔のモノを狩る連中のことさ。『穏健派』や『中立派』とは違い、それこそ根絶やしにするくらいの勢いでね」
「よりによって、やっかいな連中に目をつけられたわけか」
リコは頷いた。
「そうだね。だから、あくまで狙いはこの僕。そういう意味でも、祐真の身は安全だと思うよ」
だったら、こいつを差し出せば、全て丸く収まるのでは、と祐真は思った。淫魔との契約解除条件に、召喚主か淫魔の死亡があったはず。退魔士がリコを狩るのなら、むしろ祐真にとっては好都合かもしれない。
じっと考え込んでいた祐真は、視線を感じて顔を上げる。リコは微笑んでいた。
「大丈夫だよ。相手が誰だろうと、僕がいる限り、祐真に危害を加えさせる真似は絶対させないから。安心して」
リコは、祐真の肩を叩きながら、朗らかに言う。どうやら先ほどの祐真の様子を見て、不安がっていると勘違いしたようだ。
祐真はため息をついた。いずれにしろ、また厄介なトラブルが発生しそうだ。げんなりする。
とはいえ、前回の彩香、ユーリーペアが実行した『全世界BL計画』よりは脅威はなさそうだった。あくまでも相手の狙いは淫魔なのだし、リコが言うように、祐真にとっては心体の危険は低いはずだ。
仮に、再び目の前に花蓮が現れようとも、問題はないということである。百歩譲って、もしもこちらに危害が及ぶようなことがあっても、リコの宣言通り、彼がどうにかしてくれるはずだ。
残る懸念は『ペナルティ』が発生し得る可能性。花蓮が、こちらの情報を今以上に得た場合、その水域に達する恐れがある。祐真にとっては、それが一番避けたい状況だ。
しかし、それもリコ曰く、心配ないという。どんな方法を使っているのかわからないが、リコはこちらの実情を探られないように、情報を操作しているらしいのだ(おそらく魔術を使っているのだろうが)。そのため、おいそれとは、リコの正体に辿り着くことは不可能であるといえた。
そう。だから、自分は何も心配しなくていい。それこそ、花蓮が学校のクラスメイトだとか、身近な存在でもない限り、リスクはないはずである。
祐真は楽観視しようとした。無理にでもそうしないと、ここ最近続く異常な事態のせいで、精神が疲弊してしまうのだ。
心配ない。祐真は、何度も自分にそう言い聞かせた。幸い、上手く自己暗示にかかったようで、翌日の日曜日には、随分と心が軽くなっていた。
休み明けの登校初日。祐真はいつもの時刻に起き、リコの朝食を食べて、アパートを出た。
高校へと到着し、校門を通り抜ける。彩香の『全世界BL計画』が解除され、普段通りに戻った光景の中、他の生徒と共に校内を歩いた。
二年一組の教室へ着き、中に入る。そこで祐真は、ふと教室内の雰囲気がいつもと違うことに気がついた。
どこか浮ついているような感じ。すでに登校しているクラスメイトたちが、いつものグループで集まって、ひそひそと話をしているのだ。つい最近まで、敵であった彩香の姿はない。
そして、祐真は、そのクラスメイトたちにちょっとした特徴があることにも気づく。男子と女子とで、様子が微妙に違うのだ。
祐真は自分の席に向かいながら、この雰囲気には、覚えがあると思った。以前にもあった。確か『全世界BL計画』の時の……。
「やっときたか」
祐真が、席へたどり着くなり、すぐに星斗と直也が話しかけてくる。どうやら祐真が登校してくるのを待っていたようだ。
星斗は言葉を続けた。
「祐真、聞いたか? 良いニュースがあるぞ」
祐真は、鞄を机に置きながら尋ねる。
「良いニュース?」
どうやら、そのニュースとやらのせいで、教室の雰囲気が違っているらしい。しかし『良い』との修飾語が付いている以上、バッドニュースではなさそうだ。だが、それでもやはり、クラスの雰囲気が何か異様な気がするのは、考えすぎか。
星斗のかわりに、直也がその答えを言った。
「今日、転校生がくるらしいよ」
「転校生? こんな時期に?」
祐真は訝しがる。転校生自体珍しい(というか今まで一度もない)のだが、高校二年生の、しかもこんな中途半端な時期にやってくるのは、ちょっと変わっているなと思う。
その考えは、誰もが抱えているようで、教室の雰囲気がどこか釈然としないのはそのためだと得心した。依然、男女で差があることについての理由は不明だが……。
しかし、なぜそれがグッドニュースなのだろう。新参者の存在が、この二人にとってそんなに良いものなのか。
祐真がそのことについて質問すると、星斗は鼻の穴を膨らませた。
「女子らしいよ。しかも、めちゃくちゃ可愛いみたい」
なるほど。全て納得できた。確かに男子にとっては、グッドニュースに違いない。それで、男子と女子とで、アクションに差異があったのだ。
そして、祐真も同様だった。星斗の話を聞き、胸が躍ってしまっていた。
可愛い女子が転校してくるという恋愛ドラマのようなシュチエーションに、ときめかない男子はいないだろう。
祐真の反応を見て、星斗は銀縁眼鏡の奥にある細い目を三日月のように曲げ、笑う。
「お前にも事の重大さがわかったみたいだな」
「ああ」
「朝のSHRの時に、紹介があるらしいから、その時を楽しみにしてよーぜ」
星斗は、こちらの肩をパンパンと叩く。つい最近まで、直也と恋人として繋いでいた手だ。
そのあと、三人は、他のクラスメイトたちと同様、転校生について話をした。どれほど可愛いのか、なぜ今の時期に転校してきたのかの憶測など。
やがて、朝のSHRの時間が迫り、星斗と直也は自分の席へと戻っていった。
担任教師が入ってきて、SHRが始まる。流布されているように、転校生の話が行われ、紹介がされた。
「入ってきなさい」
担任教師の声が響き、前方の戸口が開かれる。教室中が静まり返り、皆の期待を寄せる目が、サーチライトのように集まった。
教室に入ってきた人物の姿があらわになると、クラスメイトからどよめきが発せられる。それもそのはず。転校生は、噂どおり、いや、それ以上の美少女だったからだ。
だが、祐真だけはリアクションが違っていた。戦慄していたのだ。まさか、そんな馬鹿な……。
転校生の美少女は、教壇まで歩いたあと、喜屋高校の制服をひるがえし、黒板に名前を書き始める。
名前を書き終わった転校生は、すぐに皆のほうに顔を向けた。再び、かすかなどよめき。祐真の後ろの席の男子生徒が「可愛い」と嘆息した声が、耳へと届いた。
転校生の少女は、書いた名前を横に控えたまま、明るく言った。
「風川花蓮です。よろしくお願いします」
そして花蓮は、百合の花のような笑みを浮かべ、頭を下げた。
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