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私は草原の上を歩いていた。
前に進んでいるのだが、しきりと背後が気になった。
何か忘れものをしている――。
そう思い、振り返ろうとした私の手を、誰かが握った。
「あ――」
顔を上げて前を見ると、驚いた。ずっと前に亡くなった母親が目の前にいた。
母親は無言でじっと私を見つめていた。
母親の口が、すっと開いて、私にこう言った。
「どこへ行くの?」
母親は私に尋ねた。
私は答えた。
「ううん。娘達を残してここまで来ちゃったから、あの子達が心配で……」
私は母親の手を振りほどき、素早く回れ右をして、歩いてきた方に戻ろうとした。
私は自分に言い聞かせるように言った。
「何か忘れているのよ。そんな気がして、心配で心配で」
家に帰らないと――。
私は強くそう思った。
すると母親は言った。
「あなたは私と一緒に来るんだよ」
「母さんと一緒に行くって……どこに?」
「それはね……」
母親が指さす方を私は見た。
光が溢れる川の向こう側に小さな家が建っていた。
その小さな家には見覚えがあった。まだ私が小さい頃に親子で住んでいた家によく似て――同じ建物に見えた。
私は思った。
これは夢ではない。現実でもないけど……。
私は今の自分を強く意識した。
ああ私は死んだのだ、と。
そして、今いるここは多分、死後の世界なのではないか?
私がそう考えていると、母親はまた私の手を握ってきた。
私は母親の顔を見た。
母親は悲しそうな顔をしていた。
私は言った。
「駄目だよ。母さん。このままだと、あの子達は、私の忘れものになってしまうわ。あの子達を残していては駄目なの。その手を放して」
私は母にそう強く訴えたが、母は首を横に振った。
私は同じことを言い続けた。
母は何も言わない。首を横に振るだけだった。
しばらく沈黙が続いた後、母親が口を開いた。
「もうお前は娘達がいる家に戻る必要はないんだよ。だって、あの子達は、しっかりお前を見送ってくれたんだよ」
母親がそう言うと私達の周囲の光景が、私と娘達の家の中に変わった。
私と娘達の見慣れた家の中で――あれは私の遺骨が収まった箱の前で、二人の娘が会話を交わしていた。
「お母さん。苦労かけちゃったね。でもね、もうお母さんはずうっと楽になっててもいいんだよ」
「うん。私達はしっかりお葬式まで出来たよ。お母さん。天国でお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、お父さんにも会えるといいね」
「もう会えていると思うよ。私達のことなんて忘れて、楽しく、やっているよ。きっとね」
二人はそう言って笑みを浮かべた。
二人の声を聞いているうちに、私は涙が溢れてきた。
あの二人は私がいなくても大丈夫なのだ。
あの子達はどこに行ったのかとか、あの子達をどこかに置き去りにしてきたとか、もう誰もあの子達にそんな心配をする必要ない。
あの子達は、誰かの忘れものにはならないのだ――。
「でも、そうだよね、あの子達は私のことをいつまでも覚えてくれているよね。でも、私はあの子達のことを忘れないと。そうじゃないと、あの子達に心配かけちゃうね」
私は心の底からそう思った。
私は自分の死をようやく受け入れることが出来たのだ。
だから、私は母親に言った。
「私も、今の母さんみたいに娘達のことを思い出す時がいつか来るんだよね。その時、笑ってあげないと」
ありがとう、と。また会えたね、と。
母親は笑いながら言った。
「急に忘れものを思い出した気分は、どこにいても天国にいてもヒヤッとするわ」
「親にしかわからない気分ってものに似てるよね」
「お前も言うようになったねえ」
私達は笑い合った。
<終わり>
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