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孤児院の夜
―――神よ、やはり寄進は現状維持にしておきます。
いつもは空き部屋などない孤児院の、ちょうど空いたらしい個室に通されベッドからむっつりと天井を見上げた。アンナの屋敷に滞在するはずだった。神はいつになったら役に立つつもりなのか。真剣に祈った時間を返してほしい。
―――神よ、私は役立たずに捧げる寄進は持ち合わせておりませんよ。
不貞腐れるリュカエルの横で、嘲笑うようにアイギスがキンキンと高い音を出した。リュカエルはイラッとして起き上がる。
「すぐにでも旅人を派遣してくださるか、僕が熱を出せたら寄進は三倍にいたしますよ。」
キンキンするアイギスに、枕を押し付けながらにっこりと注文をつける。抵抗してうなるほど、ますます枕を押し付けてやる。神への冒涜ばかりに敏感で、やかましいだけのなまくら剣。権能を現すリュカエルがいなければゴミのくせに、反抗的で非常にムカつく。
「出来れば発熱がいいですね。つきっきりで看病してもらえるので。」
気が済むまでアイギスに枕を押し付け、リュカエルは視線を巡らせた。窓の外はすっかり日が沈み、夜の帳が落ちている。アンナが帰宅してしまった孤児院の夜。アンナはいなくても、リュカエルの心は王都の屋敷よりずっと凪いでいた。
十五歳まで過ごした我が家には、人生の最良の思い出が詰まっている。リュカエルが失ったものの一つ。ベッドから立ち上がって窓を開けた。夜風を吸い込み、目の前に立つ椎の木に目を細める。
「……ああ、ここはサイモンの使っていた部屋か。」
窓辺に歩み寄り頬杖をついたリュカエルが、くすりと笑いを漏らした。風の強い日の夜。枝が揺れる影と音が怖いと、アンナに縋って過ごした夜。本気で怖がっていたサイモンは、今は船員として南部の港湾局で働いているらしい。
「元気かな?」
もう結婚したのだろうか? 一緒にアンナを取り合った兄弟達は、みな孤児院から巣立っていた。夜風にサラリと髪が攫われて、月明かりを反射し煌めく。長いまつげに縁どられた瞳が、思い出深い椎の木をじっと見つめた。兄弟達とよじ登って遊んだ光景が浮かんで、リュカエルは瞳を伏せた。
「……僕だけ取り残されたな。」
一番最初に孤児院を出て行ったのに。リュカエルだけがいつまでも、ここから巣立てていけない。
『ちゃんと祈らないからだぞ!』
教会の孤児院で育った子供らしく、敬虔な信仰心で真面目に礼拝の時間を過ごしていたサイモンの、懐かしい叱り声が蘇る。思い出に蘇る声に答えるようにリュカエルは呟いた。
「祈ったさ。」
アンナが結婚するまでは。心の底から真剣に。善行と敬虔な信仰心は神に必ず届くと、神父様の教えを信じていたから。この孤児院で兄弟達と、共に学び暮らせていることを。アンナに出会えたのは、神のおかげだと。心の底から感謝の祈りを捧げていた。
「どうせ祈りが足りないからだって言うんだろ?」
サイモンが言い返してきそうな返答に、リュカエルは口角を上げた。
「寝食を忘れて祈っても、結果はこの通りだよ」
平民出身のアンナは、男爵家に熱心に乞われて結婚した。神の愛し子だからと安心していたのに、神は裏切り婚姻を許した。五歳年下の未成人だったリュカエルの目の前で。絶望に打ちひしがれて、せめて側にいたいと祈ってもそんなささやかな願いさえ神は聞き届けなかった。
「まだ神なんか信じてる? どれほど祈ろうがささやかな願いさえ、なに一つ聞叶えてなんてくれないのに……」
そのくせちょっとした奉仕は当然のように強要する。寝台に放り投げたアイギスが背後でキーンと長く啼いたが、リュカエルは振り返らなかった。
夜風にサラサラと流れる、自分の髪を摘まんでみる。名門エリスコア家の血筋を色濃く継いだ銀の髪。見つめる瞳は青の強い紫色。異国の母親の色を引き継げていたなら、ずっとここで暮らせていただろうか。
「それは、さすがに無理か……」
自嘲の笑みを浮かべて、リュカエルは髪から手を離した。目に映る景色に懐かしさを覚えることが寂しかった。ここを離れて暮らす気などなかったのだから。
異国の踊り子との恋を諦めきれず、結婚を拒み続けた父親に嫡子は自分しかいない。重責に耐えかねて、自由を求めて去った踊り子をあれほどの執念で探していたのなら、リュカエルはどうあっても探し出されていただろう。
「そういう血筋なんだろうな。」
未だに独身を貫いている父親は、どうにも自分の血族だと認めざる得なかった。容姿だけではなく平民に恋をして、茨の道を迷わず選ぶ生き方までもがそっくりだ。代償に聖騎士を率いるエリスコアは、リュカエルだけになってしまった。どうあっても血族を次代に繋ぐ義務を、リュカエルは背負わされた。それでも必死に探し出して、ここから連れ出した父を神ほどは恨めない。血筋と敷かれたレールから逃れられず、それでも断ち切れずここにいる自分にあまりに重なって。哀れにさえ思う。
「……同じ結末はごめんだけどね。」
ようやく機会を掴んだ。生かせなければ、頭の弱い王女と婚約させられる。
―――神よ、最期の機会に心から感謝を。
リュカエルは口角を釣り上げて、正式な跪拝をとって祈りを捧げた。その程度には感謝していた。自分しか知らない神託を降りしたことに。何もできないまま終わらずに済む。
跪拝したリュカエルにアイギスが、満足そうにヒュンと刀身をしならせた。横目でアイギスを睨みつけ、跪拝したままリュカエルは遠慮なく祈りを続けた。
―――ですが、あまりにも遅いです。機会はもっと早くに与えるべきでした。例えばアンナが結婚する前とか。これまでの詫びとして奇跡の一つや二つ、もっと気軽に起こしても罰は当たりませんよ?
神をも畏れぬ図々しさに、猛烈に騒ぎ始めたアイギスに、リュカエルは呆れ返った。後がなくなってから、機会を与えて感謝されると思う方が図々しい。大体にしてこの機会も、リュカエル自身が作り出したものだ。
「でもいいですよ。何もしなくても。」
もうずっと神に裏切られてきた。もうずっと敬虔で真摯な祈りは無視され続けていた。やっと巡ってきた、たった一度の最後のチャンスに全力を尽くす。
「神よ、僕は本気です……」
抗議に重みを増してずっしりと寝台に沈む剣に、リュカエルは脅すように声を低めた。もしもこの孤児院を去る時に、アンナが自分の隣にいないなら。その時は僅かに残った信仰心など、肥溜めにでも投げ捨てる。
偉大な神の地上での力の代理人、エリスコア家。リュカエルが最後のエリスコアだ。国と民を「力」で護る「庇護」の代理人は、リュカエルが神を捨てれば途絶えることになる。
「神気の宿る神の剣だろうと、エリスコアが途切れればただのゴミです。アンナを与えないのなら、僕はうるさいだけの神器で不要な生殖器をちょんぎります」
アンナ以外との子作りなどお断りだ。望む未来をことごとく踏みにじられてきた。代理人に神の威光を地上に知らしめる奉仕を望むなら、その分自分へ対価を与えてしかるべき。
「僕が最後のエリスコアですよ。僕が死んだら地上の力の庇護はそこで終わります。」
リュカエルは憤慨するかのように、ブンブン言い始めたアイギスに微笑みかけた。王都中の貴族令嬢が群がる美貌に、王都では一度も浮かべたことのない極上の笑みが浮かび上がる。
「さあ、神よ。奇跡を遠慮なく思う存分僕にお与えください。たくさん与えてくださって構いませんよ。余すことなく全て受け取りますので。王女とかいらないです。アンナを。貴方が深く寵愛する愛し子、アンナ・ブレアを僕に下さい。簡単でしょう?」
鈍く光る神の剣に微笑みかけて、リュカは簡素なベッドに身を投げ出した。
「まずは手始めに、アンナが適度に心配する程度の発熱で構いませんからね。」
夢見るように呟くと、寝るのに邪魔な神の剣を床に放る。ビンビンうるさい剣を黙らせるために、枕を叩きつけるとリュカエルは布団にくるまった。
たった一つ望んだものを奪われ続けた聖騎士。その恨みは深かった。神の庇護の代行者の最後の末裔は、神の代行者とは思えない信仰心の低さで、思う存分神を脅しつけると明日の発熱を楽しみに眠りについたのだった。
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