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僕の妻です
「ねえ、アンナ? 昨日は僕、一人ぼっちだったんだよ?」
「…………」
「夫婦なのに別々に寝るのはおかしいよね?」
「…………」
『当然だろうが……』
我慢できなくなったアイギスが、低く唸るのを軽くこついてリュカエルは黙らせた。
シミーズをプレゼントされたアンナは、真っ赤になってその場を逃げ出した。下着をプレゼントされただけでなく、それがあの汚されてしまったシミーズの代りだったことに耐えられなかった。あの時の光景を思い出してしまっては、まともに顔を合わせていられずギースに頼んで客間で眠ったのだった。
「で、でも……リュカ、お腹に赤ちゃんがいるから……だから、そういうことは……」
真っ赤になって口ごもるアンナに、リュカエルはきれいに結い上げた髪を崩さないようにそっと近づいた。
「僕が何かすると思ってたの? 僕だって赤ちゃんに会えるのを楽しみにしてるんだ。ちゃんと我慢するのに……」
え? と顔を上げたアンナに、リュカエルが眉を顰めた。
「僕が何も考えてないと思ってたの?」
「そ、その妊娠中は……赤ちゃんだってびっくりすると思うし……」
『愛し子よ、気にするな。これまでのことを考えれば、こやつを信用できないのは至極当然だ』
なんせ正真正銘の変態だからな。ヒュンヒュンと鳴るアイギスを笑顔で殴りつけて、リュカエルはアンナを覗き込んだ。
「僕、ちゃんとパパになる勉強をしてるよ? 無理させちゃダメって知ってる。だからいい子にして我慢しようと思ってた。それなのに、アンナにそんなふうに思われてたなんて、傷つくな……」
「あ、の……リュカ……そんな風に思っててくれたの……? ごめなさい……私、勝手に勘違いして……」
リュカエル傷ついた表情に、アンナは申し訳なさそうに瞳を潤ませた。子供とアンナのことを考えてくれていたことに、感謝まで滲ませている。アイギスが疲れたように刀身を震わせた。
《愛し子よ……そやつがいい子だったことがあったかもう一度思い返すんだ……》
純真な子兎はいとも容易く、猛獣を信頼してしまう。子犬じゃなくて猛獣なのだと早く学習してほしい。また助けられなかった無力感に、アイギスは項垂れた。
「だからもう僕を一人で寝かせないでね? いつもそばにいてよ」
「うん……ごめんなさい……」
「いいよ、許してあげる。その代わり約束してね? 何があっても僕といつも一緒って。寝る時もだよ」
「わかったわ……ごめんね、リュカ」
「うん、約束してくれたから大丈夫」
「ありがとう、リュカ」
(かわいいね、アンナ。僕本当に、ちゃんと勉強したんだよ……)
色々と。内心の呟きを綺麗に笑って押し隠し、リュカエルは口元を緩ませた。しゃーしゃーとシミーズをプレゼントするという、そもそものアンナが逃げ出す原因を作った変態は、まんまと一人で寝かせた罪悪感を植え付けて欲しいものだけ掠めとっていく。
狡猾だあまりにも狡猾だ。アンナを抱き寄せるリュカエルに、アイギスは慄いた。無垢な愛し子に対抗できるわけがない。
《愛し子がどうか無事でありますように……》
アイギスはせめて祈った。どうせろくなことをしない。今どんな言質を差し出したのか。愛し子が思い知る日が来ないことを願った。その願いが届くことはないと分かっていても、上等な布でアイギスを丁寧に磨いてくれる愛し子のために祈らずにはいられなかった。
※※※※※
聖ガイムス王国の国王は、約束の時間の三時間前からイライラとその到着を待っていた。リュカエル・エリスコアが王都入りしてから一週間。本当に休暇を理由に一度も顔をださなかった男は、王都入りしてからもリュカエル・エリスコアだった。
帰還しても屋敷に引きこもり、使者も書信も寄越すことはなかった。三日経過してもシカトされたままの王は、業腹ながら使者を立てた。王宮に顔を出せと。その返事は妻が疲れていますの一言。完全に頭に来て、矢のように催促をしようやく訪問の返事をもぎ取ったのだった。
(なんなの? エリスコアなんなの?)
エリスコア公爵夫人を見ようと詰めかけた貴族が居並ぶ謁見の間で、玉座に座した王はイライラと顔を顰めた。すでに約束の時間から十五分ほど遅刻している。シカトした挙句堂々と遅刻してくるなんて王を舐めすぎ。
王の不機嫌さに張り詰め始めた空気の中で、貴族達は居心地悪そうに身じろぎをした。
「エリスコア公爵夫妻がお見えです!!」
遅れること二十分。ようやく行政官の取次の声が響き、王は奥歯を噛み締めた。正直帰れと言ってやりたかったが、普通に謝罪もなく帰って催促しなければ王宮に近寄りもしないだろう。
「……通せ……」
苛立ちを飲み込み王は、ものすごく我慢して頷いた。謁見室の扉がギイッ音を立てて開かれ、集まった貴族達は入り口に一斉に視線を注ぐ。カツカツと靴音が天井の高い謁見室に響き、序列で並ぶ下位貴族達から声にならないざわめきが広がり出した。目を見開き声を失う貴族たちを、より驚かせたのはなんだったのか。
エリスコア領でしか産出できない貴重な絹の、揃いの装いの美しさにか。それとも表情筋が死んでるはずのリュカエルの浮かべている蕩けるような笑みにか。
気遣うように丁寧に妻をエスコートする氷の騎士は、妻しか目に入らないかのようにピッタリと寄り添っている。愛し子といえど平民と聞いていた女性は、王族ですら全身を彩ることは難しいだろう美しい絹を纏っているせいか、噂に聞くよりずっと美しかった。
本当にあのリュカエル・エリスコアなのか。呆然と二人を凝視する貴族達の視線を気にも止めず、赤絨毯をリュカエルはゆっくりと進んだ。声を失っていた貴族達からざわざわとごく顰めた囁きが溢れ始める。
玉座の前にきて、ようやくリュカエルは王に顔を向けた。王都中の女性を虜にした美貌は、満面の笑みを湛えて高揚してすらいる。絶句して茫洋と目を見開く王に、リュカエルは一度も浮かべたことのない笑みを向けた。
「リュカエル・エリスコア。謁見の懇請に従い訪宮いたしました」
懇請……王はぴくりと眉を引き攣らせた。いつものように会釈とも言えない礼をすると、リュカエルは抑えきれない様子でアンナの腰を引き寄せた。
「僕の妻のアンナ・ブレアです!」
昂然と顎を逸らし自慢げな響きを隠しもしないリュカエルの声が、ひそめたざわめきに揺れる謁見の間に響き渡る。水を打ったように静まり返り、衝撃から立ち直れない貴族達の視線を受けて立つリュカエル。
王は理解した。リュカエルが王宮に来なければならなかった理由はいくつもある。理由はいくつもあっても、リュカエル・エリスコアが王宮に来た理由はただ一つだ。
(こいつ……完全に嫁の自慢にきてやがる……)
もう遅刻すらわざなのかもしれない。大注目の視線の中で、ドヤ顔を隠せていないリュカエルに王は絶句した。
居た堪れなそうなアンナをチラリと見て、ため息をつくようにアイギスがビインと低く刀身を鳴らす。
アンナに集まる視線の数々。エリスコア当主と共に長きを王都に身を置くアイギスは、野に朗らかに咲く素朴な花が萎れてないよう祈るだけの我が身をもどかしく思った。
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