氷の聖騎士

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氷の聖騎士

 室温すらも下げるかのような凍てつく瞳の冷たさに、ラヴィーナは凍えながら震える唇を必死に動かした。 「……リュカ、エル様……私を妻にと望んでおられるのでしょう? 神託に従ってはいても、本心では私こそを……その平民が我が物顔で着ているドレスだって、本当は私が纏うはずの……」 「いいえ? どうやったらそんな勘違いができるのか……一度医師と神官の診察を受けられては?」 「……リュカ……」  聞いたこともないような冷たい声に、アンナの目の前でラヴィーナの瞳がゆっくりと絶望に染まっていく。アンナは震える声で、リュカエルを呼んだ。リュカエルは、振り返らなかった。そればかりか爛々と瞳を燃え上がらせて、溜め込んだ怒りを吐き出すように嘲弄を深めていく。 「このドレスは僕がアンナのためだけに、()()()()()()()()作らせていたドレスです。僕の花嫁のために。まあこのドレスですら物足りないのですがね。僕のアンナはドレスなんかよりずっと美しいから」  うっとりとドレスを纏ったアンナを見つめるリュカエルに、ラヴォスが驚いて振り返った。動揺を隠しきれない表情で、リュカエルを凝視するラヴォスに、アイギスは頷いた。 『大丈夫だ、我も同じ気持ちだ……』  リュカエルが王都入りしたのは六年前。確かにこの希少な絹糸で、ドレスを作るとなるとその位の歳月は必要ではある。衝撃から立ち直れないラヴォスを、励ますようにアイギスは小さく刀身を鳴らした。  王都入りしたリュカエルは十五歳。どう足掻いても未成人。にも関わらず六年もの歳月をかけてドレスを作っていた。求婚どころか告白さえしてない、相手との結婚のために。普通に気持ち悪い。  ドン引きしているラヴォスとアイギスをよそに、ラヴィーナは別の衝撃を受けていた。イケメンは無罪らしい。 「違う……! だって……私達はリュカエル様がお戻りになられたら、婚約のお約束を……!!」 「してませんよ? 王家に正式な通達で、休暇を邪魔されました。ですので金輪際、鬱陶しく付き纏って馬鹿げた願望を口にしないでほしいですね」  リュカエルは口角を吊り上げた。そしてゆっくりと令嬢達を見回すと、クスリと笑みをこぼした。 「……随分とご友人も多いようですね? そこの方々はよくも僕の前に顔を出せたものだと感心しますよ」 「「リュ、リュカエル様……!!」」  顔色を変えた令嬢が取り繕うように声を上げたが、リュカエルの嘲笑うような笑みに凍りついた。 「礼儀を熱く語りいかにも友人面した者達が、何度媚薬を盛り吐き気を催す姿で僕に迫ってきたか知っていますか? もちろん知っていて友人を続けているのですよね?」  ラヴィーナが般若の形相で振り返り、令嬢達の表情にゴリッと奥歯を鳴らした。アンナが衝撃を受けたように顔色を変える。 「貴女達……!!」 「ち、違うのです……どうか、リュカエル様……!! なぜ今になって……!!」 「秘密の恋人でいいそうですよ? お断りですけどね」  にっこりと止めを刺したリュカエルに、激昂したラヴィーナが床を力任せに踏みつけた。あまりの音の大きさに、令嬢達は恐怖でへたり込む。涙でボヤける視界でリュカエルを見やれば、奇跡のような美貌は愉快そうに薄ら笑いを浮かべている。その表情に絶望して、令嬢達はひくりと喉を引き攣らせた。  どれほど熱烈に迫っても、拒絶されたが顔色一つ変えることもなかった。その所業が噂になることもなかった。ただの一度たりとも。それが夢を見させた。優しいから、本当は望んでいるから。だから口をつぐんでいるのではないかと。勘違いがますます行動を大胆にさせた。待っていただけとも知らずに。最も致命的な瞬間に、僅かなつながりさえ残さず拒絶できる時をただ待っていただけ。 「リュカ……」  気遣わしげにリュカエルを呼ぶ声を呆然と聞きながら、恋はおろか全てを失いかねない状況に令嬢達は泣き伏した。 「貴女達如きが!! 許さない!! 私は……私が王女よ!! リュカエル様に相応しいのは私だけ!! 貴女達程度の女でも、そこにいる平民如きでもない!! 相応しいのはこの私だけよ!!」 「平民……ごとき?」  床を踏み鳴らしながら喚くラヴィーナに、リュカエルがぴくりとこめかみを震わせる。ぞくっと走った悪寒に、ラヴォスがそっとリュカエルと、目の前の光景から視線を外した。そこかしこで令嬢が絶望に泣き伏し、王女が怒り狂って床を踏み鳴らす。どう見ても立派な地獄絵図に、ラヴォスは居た堪れなかった。 「そうです! 目をお覚ましください! 卑しい平民ごときが神の代行者たるエリスコアの当主、リュカエル様の妻など許されない!! 神託で婚姻は結んでも、私が真実の妻として……」  リュカエルの呟きに勢いよくラヴィーナは顔を上げた。さらに言い募ろうとしたラヴィーナに、リュカエルはにっこりと笑みを向けた。 「では王女殿下はそもそも最初から、僕との婚姻を望んでいなかったのですね。それなのにわざわざこんな見苦しい騒ぎを起こすとは……嫌がらせですか?」 「何を……?」  リュカエルは浮かべていた表情を凶悪に歪めた。その壮絶な笑みに気圧されて、ラヴィーナが後ずさる。 「ご存知でしょう? 僕の母は卑しい平民です。それも出自がはっきりしない、どこの馬の骨ともしれない異国の踊り子。貴女が平民と蔑む者たちより、よほど卑しく下賎な血がこの身に流れているのですから」 「……リュカ!!」  言葉の刃で切り刻みながら、ジリジリと追い詰めるのを愉しんでいたリュカエルを、引き止めるようにアンナが声を上げた。リュカエルがハッとしたように目を見開き、そっとアンナを振り返る。 「そんな……! そんなことを言わないで! リュカはいつだって優しくて、素敵な男の子よ! 生まれなんて関係ない! いつだって素敵だった! だからそんなふうに自分を貶めないで!」 「アンナ……?」  もしかして。リュカエルは呆然としながら、ボロボロと涙を流し守ろうとするように必死に抱きしめてくれる、アンナを見下ろした。 「……も、もう、十分でしょう……? みなさんにだってもう十分、つ、伝わったわ……リュカが辛かったって、もう分かってくれてる……! だからもうやめて……ごめんなさい、側にいられなくて……辛い思いをしていたのに、助けてあげられなくてごめんなさい……ごめんなさい……」 「アンナ……」  これは……半ば呆然としたままリュカエルに、アンナはクシャリと顔を歪めた。 「……帰りましょう、リュカ」  アンナにも優しくしてくれたあの家に。きっと王都で辛い思いをしていたリュカエルを、ずっと支えてくれた人たちがいる家に。涙を拭くこともせず懸命に言い募るアンナを、リュカエルは掬い上げるように強く抱きしめた。  ―――ああ、アンナ……神よ、人をあなたが創ったのだというのなら、アンナがあなたの最高傑作です……  アンナの優しい体温に擦り寄り、甘い匂いを思い切り吸い込む。愛しい愛しい宝物。誰よりも大切で誰よりも愛してくれる、リュカエルだけの宝物(アンナ)。 「……うん、帰ろう……」  これは……相当使える。溶け崩れるように笑みを浮かべ、リュカエルはアンナを抱き上げた。 「僕とアンナの家に」  スタスタと歩き出したリュカエルの腰で、アイギスは完全な虚無を噛み締めながら揺られていた。アイギスと全く同じ表情でその背を見送るラヴォス。ギースは素早くラヴォスに何事かを囁きかけると、主人の後を急いで追いかけていった。
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