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聖騎士の飼い主
王都から道行く人の視線を、その美貌で奪いながら神馬を駆る。馬よりずっと早く駆ける神馬のおかげで、景色は視界の先で形を成す前に通り過ぎていった。近隣諸国がその美しさをたたえる景色も、逸るリュカエルには何の価値もない。
(アンナ……)
一刻も早く会いたいと願う人物が一緒ならば、この景色を楽しんだのかもしれない。王都からずっとビンビン大騒ぎしているアイギスを、リュカエルは冷たく睨んだ。
「……うるさいですよ、アイギス。いつまでもビンビンするのなら、その辺に捨てていきます」
それでも黙ろうとしないアイギスに、リュカエルは呆れて鼻を鳴らした。
「他の神器は静かなのに、全く……」
自分の信仰心のなさを棚に上げて不満をこぼしたリュカエルに、アイギスはブンブンと唸った。神からの贈り物である神器をちゃんと敬う二家門の神器は、言葉も通じる上に間違っても捨てていくなど一度たりとも言われたことなどない。
不貞腐れて重みを増したアイギスを無視し、小川が見えたところで足を止めた。
「シュルツ、もうすぐ会えるよ」
王都に連れていかれて間もなく与えられた、神馬の神獣シュルツ。望んでもいない王都暮らしの、数少ない慰めとなってくれた無二の親友。その首筋を優しく撫でると育てた主人に似て育つ神獣は、嬉しそうに鼻を鳴らした。
シュルツもリュカエルも会いたい人はただ一人。自分に似た上に、美しい魂を愛する神獣ならば懐いて当然なのだろう。
「もういいの? ふふっ、そんなに会いたい?」
ガブガブと水を飲むと休憩もそこそこに、早くと急き立ててくるシュルツに苦笑する。本当に自分にそっくりだ。想い人へ逸る気持ちのまま飛び乗ると、シュルツは真っ直ぐに走り出した。呆れるほどの速度で目的地に向かう一人と一頭に、アイギスは呆れたようにビインとため息を吐き出した。
更に速度を増したシュルツの足が、東部の端にあるのどかな街「タルム」で止まる。幼少期を過ごした街並みに、王都では決して見せない笑みが自然に浮かび上がってきた。
「シュルツ、ありがとう。お疲れ様。」
裏手の厩舎にシュルツを繋ぎ、手荷物だけを手に取ってゆっくりと仰ぎ見る。森を背に立つ、古びた教会。父は死んだと聞かされ、母親の病没と共に自分を引き取ってくれた孤児院。ありのままの自分でいられた大切な思い出の場所。
腰に佩いたアイギスがビインビインと絶え間なく、刀身を震わせる音にリュカエルは眉根を寄せた。
「ビンビンしても無駄です。僕のたった一つのささやかな願いを無視し続けた結果です。知っていたはずです。僕が幾多の夜に祈りを重ね、数多の試練を乗り越えてきたことを。」
アイギスは音を立てて震えるのをやめ、不貞腐れたように沈黙した。ようやく黙ったことに、リュカエルは満足そうに頷くと、ゆっくりと下草を踏みしめかつての我が家に歩を進める。
これが最後の機会。逃せばリュカエルの望みは今世で叶うことはない。アイギスがどれほどビンビンしようが、リュカエルは後戻りするつもりは毛頭なかった。そしてもう手遅れでもあった。
―――神よ、僕は本気です。
傲慢で無慈悲な神の愛から、必ずむしり取って見せる。裏戸のドアノブにかけ、軋む扉をゆっくりと開いた。開けた先で小柄な人影がゆっくりと振り返る。
「……リュカ……?」
驚いたように小さく呟かれた自分の名前。期待していた不意打ちに、心臓が歓喜に打ち震えた。
「……っ、アンナ!!」
奔流のように感情が湧き上がり、大股で距離を詰めると、突き上げてくる想いのまま驚くアンナのか細く小さな身体を抱きしめた。吸い込んだアンナの香りに、リュカエルは熱くため息を吐き出した。
―――神よ、あなたもたまにはいいことをするのですね……
一番最初に出迎えてくれたのが、会いたくてたまらなかったアンナだったことに、リュカエルは素直に神に感謝した。腰に収まるアイギスが、呆れたようにビインと一度だけ低く鳴り響いた。
※※※※※
ほこほこと湯気のたつお茶を両手で包み込み、リュカエルは満面の笑みでアンナ・ブレアを見つめていた。絶対零度の氷の聖騎士は片鱗さえない。喜びに頬を上気させ熱く瞳を潤ませた姿は、撫でて欲しくて主人に熱い視線を送る子犬でしかなかった。
「アンナ。このお茶、すごくおいしい」
「エリスコア家の跡取りに出せるようなお茶じゃないけどね。」
「……そんなの関係ない。十五歳まで親しんだお茶だし。僕はアンナが入れてくれるこのお茶が、一番好きだよ。」
「ふふっ。お世辞が随分上達したみたい。まるで本音のように聞こえるわ。」
「本音だからね。本音にしか聞こえないのは当然だよ。」
「もう、高級茶葉に勝てるわけないでしょ。でも、ありがとう。……それとお帰り、リュカ。」
お帰り。その優しい響きの柔らかさに、リュカエルはへにょりと眉尻を下げた、喉奥が震えて視界がうっかり滲む。いつものように、リュカエルはアンナへ腕を伸ばした。アンナもいつものようにリュカエルを抱きしめる。一瞬、泣きそうに顔を歪めたリュカエルは、アンナにへばりついて小さな声で囁いた。
「……ただいま、アンナ」
会いたかったよ。縋るようにアンナを抱きしめると、慰めるように銀糸の髪を撫でてくれる。心地よさにねだる様にすり寄ったリュカエルに、アンナが困ったように笑った。
「リュカはいつまで経っても甘えん坊ね。……何かあった? 突然帰ってきたりして……」
無理には踏み込まないと控えめな気遣いの潜む声に、リュカエルは幸せな気分で笑みを浮かべた。アンナはずっと変わらない。優しい姉のように、寂しがり屋の弟をいつだって甘やかしてくれる。いつまでも子供のままではいないのに。
「……休暇を取ったんだ。少し長めの、ね。」
「え? 休暇!? 少し長めって……大丈夫なの?」
うっとりとアンナにへばりついていたリュカエルは、肩を押されて引きはがされた。心配そうに覗き込んでくるアンナを、もっととぐいぐいと腰を引き寄せる。
「聖騎士が長い休暇なんて……居づらくなったりするんじゃない?」
腕の中に納まろうとしないアンナに、焦れるように何度も引き込もうとしていたリュカエルは、アンナの目の色に諦めて渋々口を開いた。ちゃんと答えなければ、もう一度へばりつけそうにない。
「……平気だよ。聖騎士なんてたくさんいるし。」
「でもリュカは代行者じゃない。それにエリスコア家よ? アイギス様もご一緒なのでしょう? 何かあったら……」
「平気だよ。ちゃんと陛下に許可を得てる。聖騎士はたくさんいるのに、多少の休暇さえ認められないなら、もう聖騎士なんて辞める。別になりたくてなったわけじゃないし。」
「……でもリュカ。貴方、しょっちゅう休暇取っているじゃない……」
先月も二週間ほど滞在していた。駄々っ子のように言い募るリュカエルに、アンナは心配気に首を傾げた。リュカエルはさらに必死に、駄々をこねることにした。元シスターのアンナは知っている。
神器の所有者が、そんなに王都を離れることを許されないと。聖騎士がいくらいようが、リュカエルの代わりはいないと。だが今、追い返されるわけにはいかなかった。最初で最後のチャンスなのだから。
「……アンナ、本当に大丈夫だから。僕を信じて。ね?」
休暇を取ることに全く罪悪感も躊躇もないリュカエルは、うるうると潤ませた瞳でアンナを見上げた。なんならもっと取らせろとさえ思っている。心配なのは、ただ一つ。真面目で勤勉なアンナに、怠け者だと思われること。アンナの表情から内心を推しはかろうとする間に、ふわりと空気が動き頬にアンナの手が添えられる。
「……リュカ……もしかして意地悪されてるの……?」
心配そうにのぞき込むアンナに泣きたくなった。湧き上がる幸福感を噛みしめながら、ゆっくりとアンナを引き寄せる。
「そんなんじゃないよ……アンナ……」
王都でのリュカエルを知らない、優しいアンナの優しい勘違いに胸が苦しくなった。幸せで死にそうだ。
「……好きなだけいたらいいわ。ここはいつだって貴方の家だから。」
どちらかというと、リュカエルこそが意地悪をしている。それを知らないアンナは、労わるように優しく微笑みかける。リュカエルは甘えるようにアンナに頬をすり寄せた。
「……うん。」
巻き付いたアンナを抱きしめながら、リュカエルはほくそ笑んだ。優しい優しいアンナ。リュカエルはこれ以上追求されないように、全力で小さなかわいいリュカをする。
「アンナ……お願い、もう少しこうしてて……?」
調子に乗り始めたリュカエルがすり寄って甘えれば、アンナは返事の代わりにそっと撫でてくれる。腰にしっかり巻き付いたまま、リュカエルはうっとりと目を閉じた。
―――ああ、神よ、王都に戻ったら寄進を二倍にいたします。
アイギスが呆れたように重みを増したが、リュカエルは気にも留めない。腕の中に閉じ込めたアンナの体温に、リュカエルはうっとりと目を閉じた。
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