天城の殺陣

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天城の殺陣

 広い座敷に乱雑に散らばった布団をかき集めながら、お(しち)は小さくため息をついた。どの布団も硬くて女の細腕には重い。おまけに男どもが寝た後の布団は汗と土とよくわからない()えた匂いがして、思わず眉間に皺が寄る。  えいこらしょ、と気合を入れて庭の物干し台まで運んで並べていると、昨夜泊った旅人たちを見送る祖母の背中が見えた。老緑色の着物を身にまとった祖母の背中はすっかり丸い。けれど村一番の知恵者であったし、隣近所からも頼りにされていた。  お七と祖母は甲斐にある山村の一角で農家をしている。とはいえ、年若い娘と老女1人で広大な田畑など管理できる筈もなく、近所の者の手を借りているという現状だった。その代わり、こまごまとした雑事を引き受けている。村を訪れた旅人の相手をするのもその一環だった。村は交通の関係で良く旅人が通るが、この村は幕府に定められた宿場町ではない。かといって歩き疲れた人間を軒下へ放置するというのも気が咎める。そんな理由でお七の家の母屋に泊めてやっていた。金銭は一銭もとらない。くれるというなら貰うが、あくまでこれは好意であるからだ。お七などは「飯も出してやっているのだから少しくらい納めて貰ってもバチはあたらないんじゃないの」と思うのだが、祖母は頑として“好意”という体を崩さなかった。そのおかげかは判らないが、今まで目立った問題に巻き込まれた事はない。 「ばっちゃ、彼らは出立されたのか」 「ええ。帰りにも立ち寄るそうですよ。土産は何がいいかと聞かれました」 「そりゃ嬉しいね。期待しないで待っていよう」  祖母の好意に甘えた旅人たちは、たまに手土産を持ってくることがある。口約束で終わる時と、実際に訪れる時とで、割合は半々くらいだ。期待はあまりしていない。 「お七、薪割りと座敷の掃除をお願いしますね」 「わかった」 「座敷の札を替えるのも忘れてはいけませんよ」 「はぁい」  お七は言われた通りに薪を割り、座敷の掃除をした。座敷の柱に張られた掌大のお札を貼り替えるのも忘れない。指先でぺりぺりと剥がして新しいものと交換する。水を付けただけなのに、不思議と吸い付くように貼りつくものだ。  お七は、この札が何なのか、詳しくは知らない。  祖母が夜な夜な作っている自作の札で、彼女曰く「御守り」なのだという。悪いものが入ってくると知らせてくれるものだという。  どうしてこんなものを貼るのか、お七は不思議に思っていた。隣の家も、そのまた隣も、そんなものを貼る習慣なんてないのに。  ちょうど座敷に帰ってきた祖母に疑問をぶつけると、「用心のためですよ」と眉間に皺を寄せて答えた。 「若い娘は狙われやすいのです。歳の頃が近いからでしょうね。……強い情念は彼岸の病を持ち込むことがある」  祖母の話はいつだって解りづらい。そもそも説明する気がないのだ。 「お前が虹彦(にじひこ)さんと一緒になれれば、こんな気休めもしなくて済んだのですが」  それでそんな風にため息なんぞをつくものだから、「やめてよばっちゃ」とお七は悲鳴をあげた。 「わたし、あん人の事は忘れるって決めたのよ」  虹彦、というのは数年前から度々村を訪れていた行商の男のことだ。日に焼けた肌が健康的で、太い眉と朗らかな笑顔に愛嬌がある、気の優しい青年だ。彼はたいそうお七に執心しており、村の近くにくる度に、わざわざお七の元に訪ねに来てくれた程。近所の者はお七と虹彦はいつか夫婦になるものだと思っていたし、お七も満更ではなかった。  しかし、それは叶わなかった。  村の地主の娘であるお敬が、偶然見かけた虹彦を見初めてしまったのだ。彼女もその父も、虹彦とお七が愛し合っているのは承知の上であったが、お敬は諦めの悪い女であったし、彼女の父も娘の願いを叶えてやりたい一心で、2人の結婚を後押ししてしまった。事実彼にとって結婚とは家同士の契約のようなもので、情なんてものは後から湧くものだ。  近所の者は虹彦を「金に目が眩んだのだ」と罵ったが、お七はそうは思っていない。虹彦はきっと、村で暮らすお七の祖母の事を思ったのだ。お七が横恋慕したなどと吹聴されては、2人は村で暮らせなくなってしまう。お七は虹彦に付いてくれば良いが、高齢の祖母はそうはいかない。  一緒になることは叶わなかったが、それでも構わないとお七は思っていた。自分は今でも心から虹彦の事を愛しているし、幸せを願っている。今や虹彦はお敬の夫であるが、想いあった幸せな日々が消える訳ではない。お七にはそれで十分だった。 「お前は気持ちの澄んだ娘ですからね、滅多なことじゃ病に罹ることはないでしょうけど……十分気をつけるんですよ。老いぼれを1人にしないでくださいませね」 「ばっちゃは大げさだな。病気なんて、罹る時は罹るさ」  実際、お七は先月風邪をひいていた。 「そういう事ではないのですよ」  祖母は不安げにお七の手をさすった。がさがさのぬくい掌が、お七の手を、胸を、きしきしと痛めつける。祖母は今日から、3軒先の家にお産の手伝いに行くことになっていた。  その夜のことだ。  お七は母屋の外を歩く何者かの足音で目を覚ました。ずる……ずる……と何かを引きずるような音と、ぴちゃ……ぴちゃ……と水気の混じった不快な音が聞こえてくる。  最初は夜中に客がやってきたのかと思った。以前も、到着が夜更けになった旅の者を迎え入れたことがある。けれど、なんとなく、予感めいたものだったが、お七はこの足音の主が、人間ではないような気がしたのだ。背筋が震え、指先がかじかむような、嫌な緊張感がある。  お七はゆっくりと布団から抜け出し、物音を立てないようにして押し入れの中に逃げ込んだ。畳んだ布団も間に隠れるようにして息をひそめていると、襖が開く音がして、足音が座敷に入ってきた。  ずる……ずる……  ぴちゃ……ぴちゃ…… 「……!」  悲鳴をあげそうになる口を両手で塞ぎながら、お七は足音の主が遠ざかるように必死に念じた。その願いが通じたのか、足音はだんだん小さくなり――そして何の音もしなくなった。  座敷から物音はしなくなったが、押し入れから出る勇気を持つことができず、そのまま夜を明かすことになったのだった。  翌日、ぐったりした様相で押し入れから這い出たお七は、「あっ」と声をあげた。  視線の先、座敷の柱に貼りつけてあった札は、真っ赤に染まっていた。 「昨夜のアレは、やはり良くないものだったんだ」  慄いていると、門の外から隣家の親父さんが呼ぶ声が聞こえてきて、慌てて返事を返した。 「おやっさん、こんなに朝早くにどうしたの?」 「ああお七、落ち着いて良く聞けよ。大変なんてもんじゃねえ、恐ろしいことが起きたんだよ」 「恐ろしいこと?」  慌てた親父さんの話は支離滅裂で、お七が要件を理解するには少しの時間がかかった。理解してからも、現実を受け止めることが出来ないような内容だった。  ――祖母の死体が田んぼで見つかったというのだ。
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