天城の殺陣

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 ぱちぱちと音を立てる囲炉裏に薪をくべる。吊り下げた鍋の中には少量の粥が煮立っていた。くるりくるりと緩慢な動作でかき混ぜるお七の面差しは暗い。彼女はこのところ塞ぎこんでいた。言葉はしっかりしているし、仕事もこなすし、飯も食う。しかし、生来の純朴な笑顔はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。  祖母が亡くなってから3週間。正確に言うと亡くなったのは祖母と祖母が見に行った身重の女であったのだが――とにかく、彼女たちが亡くなってから3週間経った。その間に村にいた若い娘が次々と殺され、田畑に打ち捨てられていった。今や村にいる若い娘は、お敬とお七の2人だけだ。  隣の家の親父さんなどは、お七を心配して家にくるように言ったが、お七は首を縦には振らなかった。万が一の時巻き添えにしてしまう可能性があることと、村の事情を知らない旅人がお七の家を頼りにして来るので、家を空けたくなかったのだ。 「もし、一晩宿を頼めるだろうか」  ――ほら、来た。  お七は内心うんざりしながらも、その一方で来訪者を心から歓迎した。客人をもてなしているときだけは、祖母を喪った悲しみを忘れることが出来た。もしかしたら、祖母もずっと同じ気持ちだったのかもしれない。彼女が旅人を受け入れるようになったのは、お七の両親と祖父が土砂崩れに飲まれてすぐのことだった。  当時のお七は幼く、祖母は老体に鞭を打ちながら働かなければならなかった。悲しみに打ちひしがれている暇などなかったろう。何かに打ち込んでいなければ立ち続けられなかったのかもしれない。 「もし、どなたもおりませんか?」  再度声をかけられて「今行きますよ」と返した。土間の戸を開ければ、奇妙な風体の男が立っていた。  男は濡羽色一色の法衣に身を包んだ僧であるようだった。背はするりと高く、すっぽりと深編笠(ふかあみがさ)をかぶっているため、その容貌は伺えないが、声は透き通るような若い声だ。けれど奇妙なことに、錫杖ではなく三味線を背負い、片手で赤子を抱いていた。 「私は旅の僧です。軒下でも構いませんので、一晩屋根を貸してもらいたい」 「構いませんよ。軒下などと言わず、泊まって行ってください。村の中でも野宿は危のうございます。たいしたもてなしはできませんが……」 「屋根があるだけありがたい」  男は天城(あまぎ)、赤子の名前は永遠(とわ)というのだと言う。天城は盲目の身であるらしく、戸をくぐっても深編笠を外すことはなかった。それだというのに、まるで見えているかのように歩き、箸を操り、赤子をあやしている。赤子は赤子で喃語も発さなければ身じろぎひとつしない、人形に思えるくらいに静かな赤子だ。そのくせ天城の飯には興味を示す。天城は「大喰らいなのさ」と笑ったが、生後1年にも満たなそうな赤子にこうもしっかりとした歯が生えそろっているものだろうか。不気味な親子だ。  天城は粥を食い終わると、三味線を取り出して手入れを始めた。赤子は布にくるまれたまま膝の上に転がされている。  お七は柱をちらりと見た。祖母のお札は白いままだ。 「貴方はしきりに柱の方を気にしているようだ。何かあるのか?」  問われてどきりとする。お七は彼の気分を害さないように、言葉を選びながら答えた。 「御守りが飾ってあります。悪いものが来ると知らせてくれるものです」 「ああ」頷く天城に気を悪くした様子はない。 「良くできてるね。腕の良い霊能者の作かな」  お七は首を傾げた。 「これは祖母の作ったものですが、霊能者だなんて」 「家族だからこそ知らないのは当然だろうとも。本物の霊能者は、その正体を隠したがるものだ。彼らが大々的に力を喧伝して回ったのは平安の頃までのお話さ」 「はあ」  訳知り顔の僧の言葉をお七は釈然としない気持ちで聞いていた。祖母は確かに博識だったが、まさかそんな一面があったなんて。天城が「貴方が今日まで無事でいられたのも、この御守りのおかげだろう」などと宣ったので猶更驚きが隠せない。 「おばあ様がいる限り、貴方があれに襲われることはないだろう」 「ばっちゃは死にました。御守りはあれが最後なんです」 「おや」  深編笠が揺れる。「これは失礼した」と言葉だけは謝っているが、その声音は軽薄そのものだ。心がこもっていない。いや、それよりも、この男は今、村の娘を襲っているものの正体を知っているかのように話さなかったか。 「“あれ”とは何のことです? 貴方は、祖母や村の子たちを殺したのが、お化けか何かだとでも言いたいのですか?」 「いいや、お化けなどではないよ。ちゃんとした実体がある。しかし、人ではない」 「人ではない?」 「正確には、人でなくなってしまった者」  天城は白い腕で茶碗を掴み、口元まで運ぶ。笠を被ったまま、器用に白湯を飲んだ。 「この国にはある病が蔓延しているのだ。人が突然人ではない……彼岸の者になり果てる病。私たちはこれを“齋病”と呼んでいる」  彼の話はおとぎ話じみている。とても信じられたものではない。けれど、お七はこの話に論拠のない真実味を強く感じていた。それは以前現れた足音の主に対する恐れからだったかもしれないし、祖母を殺した存在が同じ人間であると思いたくなかったからかもしれない。 「齋病に罹った人がもとに戻る手立てはない。私はそれらを狩ることを生業にしているのだ。……もっと嬉しそうにしてくれてもいいのではないか? 私は貴方を助けに来たのに」 「それは、どういう……」  ――ドンドン!  広々とした土間の向こう、大きな引き戸が叩かれた。飛び上がって悲鳴をかみ殺していると、「お七、お七はいるか!」と懐かしい声が聞こえてきた。 「虹彦さん?」  慌てて駆けて行って戸を開ければ、しばらくぶりに見る想い人が、たくましい腕を広げてお七を出迎えた。戸惑うお七に構わずに抱きしめて「こんなところに1人で」と無事を喜んだ。彼にはもう妻がいるのにと思ったものの、かつての愛しい人が今も同じ気持ちでいてくれたことを嬉しく思った。 「お七、2人で村を出よう」  虹彦の眼は鬼気迫ったもので、冗談などではない事が伝わってくる。 「けれどお敬が」 「もともとお前と、お前の母さんのために頷いたようなものだ。誰と夫婦になろうとも、俺の心はお前のもとにあったとも」  お七はその言葉に少女のように舞い上がった。しかし、その手を取るには一抹の不安を覚える。彼の妻のお敬の姿が脳裏をよぎるのだ。  お敬はお七と同じくらいの年の頃で、幼い頃はよく遊んだものだ。気の強い女で、なかなか縁談が纏まらないのを気にしていた。いつから目の敵にされるようになったのか、お七はよく覚えていない。 「齋病は人の情念を糧に発露を促すものだ。恨み、妬み、そして――愛もそう。強い情念を抱くものが罹る。すると、彼らは人の心を忘れてしまう」  来訪者の存在などなかったかのように訥々と語る天城の声を聞いて、虹彦はやっと来客がいたことに気が付いた。訝し気に彼を見つめるが、お七の方はそうではない。とっさに柱に貼られたお札を見た。 「ああ、なんてこと!」  お札は真っ赤に染まっていた。  己の腕から逃れ、じりじりと距離をとるお七に虹彦は首をかしげる。お七は恐ろしくて虹彦の顔を見ることもできなかった。 「互いの幸福のために離れて暮らすのも愛だとも。愛しい男を手に入れるために力を尽くすのもまた……愛なれば」  ――ビンッ  激しい音がした。天城が三味線の弦を切ったのだ。深編笠の向こうにある、光を写さい筈の目が、戸の先に向けられた事で、そこに立つ者がいるのに気が付いた。  それは女だ。  白い着物を身にまとい、長い黒髪をだらりと垂らした、陰気な顔の女だった。落ちくぼんだ目が恨めし気にこちらをねめつけてくる。どうしてか、全身がずぶ濡れだった。 「お、お敬……その姿は」  濡れ女……お敬の背にはあるべきところに尻がない。代わりに巨大な1本の尾が生えていた。先に向かって細くなる円錐型の長い尾は、爬虫類の尾に良く似ている。 「虹彦さん……どこに行こうというの……私の夫になったのに、どうして……どうして、愛してくれないの」  めきょ、と女の顔が縦に割れた。中からぬらりとしたヤモリの頭がのぞく。人間離れしたのっぺりとした顔立ち。小さな爬虫類じみた相貌。 「おのれお七……お前さえいなければ……お前さえいなければ」 「ひ」  あまりの光景に言葉も出なかった。お七も、お七を抱きかかえる虹彦も、異形の化け物になったお敬が迫ってくるのを見つめる事しかできない。  ――ビンッ  三味線の音で我に返った。とっさに虹彦ごと横に倒れてお敬の爪を逃れる。激しい音を立てて土間の壁が崩れる。 「2人の仲を裂いたはいいが、当の本人たちがあまりに高潔だったのだね。美しいものを見ると、自分が矮小な生き物に見えてくる……わかるとも……わかるとも」  天城の仕草には淀みがない。目が見えぬからお敬の姿に恐怖を抱けないのだと、お七は見当違いな事を思った。 「それでも、慎ましく彼の隣で生きるという道もあったのに。それでは満足できなかったのだね」  立ち上がった天城がゆっくりと異形に近づいていく。  ――ビンッ  3本目の弦が、切られる。  刹那、白刃が閃いた。  三味線に仕込まれていた刀が異形の胸を袈裟に切り、噴き出した血しぶきが雨のように降り注ぐ。赤くて臭い血雨のぬくもりが、この異形が現実のものであることを実感させる。  ぼとり、と天城の深編笠が落ちた。中から現れたのはたっぷりとした黒髪を女のように玉結びにした男だった。硬く閉ざされた瞼は白く、彼のかんばせが言い尽くせぬほどに美しいものだということだけが印象に残る。 「死こそ救い、死こそ安らぎ――これ以上、嫉妬の業火に身を焼く必要はない」  苦しみに喘ぐかのような声が、美しい男の唇からこぼれる。お七には、彼もまた苦しみの中でもがいているように見えてならなかった。
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