0人が本棚に入れています
本棚に追加
※※※
薄く、ほとんど色の無い空――。
それが和真の記憶にある十四年前の夏の光景だった。
「昨日よりもさらに暑くなると思うから、水分はしっかり取ってな。」
この日、一緒に組むことになった磯村義也が紙コップに入ったスポーツドリンクを差し出した。和真は礼を言って受け取ると、それを一気に飲み干した。
「決勝戦は初めてだよな。」
球審を務める澤木隆が県営球場の控室の席に座って、噴き出す汗をタオルで拭いながら声をかけてくる。はい、と答えて様子を見ると、彼ほどのベテラン審判員でもこの舞台は緊張するのだろう、机の表面を右手の中指で忙しなく叩き続けていることを、磯村と和真と、もう一人この試合を担当する西畑という審判員も気づいていた。
「そろそろ時間ですね。」
磯村の声で四人の審判員が控室からグラウンドに出る。三塁側の浜名実業高校と一塁側の静岡洋明学園高校の選手たちもダッグアウトを出て整列に備えている。やがて全員がホームプレート前に小走りで集合し、四人の審判とベースを挟んで一礼すると試合が始まった。先行は静岡洋明学園。球審澤木、一塁塁審が磯村、二塁に西畑、そして三塁塁審を和真が務めるべく、各々がグラウンドに散った。
試合は浜名実業の池本、静岡洋明学園の荘村両投手の投げ合いで進んだが、六回の表に浜名実業の守備が乱れ一死二、三塁のピンチを招く。ここで静岡洋明学園は手堅くスクイズを試みこれを見事に成功させた。先制点。十四年ぶりの甲子園を目指す浜名実業は終盤を迎えて一点のビハインドを負うことになった。
「浜名実業が十四年間も甲子園に行けていないのは、指導者の力不足や学校のバックアップが足りないからだ。」
伝統校には伝統校ならではのプレッシャーがある。かつての栄光を知るOBや地元のファンは試合に負ける度に指導者や選手のみならず、学校の体制そのものにも批判をぶつけた。結果、監督は数年毎に交代し、やがて甲子園から遠ざかるにつれて有力な選手も集まらなくなってくる。その浜名実業と入れ替わるように力をつけてきたのがこの日の対戦相手、静岡洋明学園だった。私立ならではの豊富な資金力で県内外の有力選手をスカウトし、また学校に隣接する専用グラウンドを建設するなど、県立高校である浜名実業のそれが到底及ばない練習環境を整え、直近では前年夏の選手権大会に続き春の選抜大会にも出場を果たしていた。
「洋明も強いが今年の浜実にはエースの池本と主砲の宮口がいる。チームとしても近年になくまとまっており、久々のチャンスだ。」
前評判では洋明に次ぐ二番手の優勝候補。OBや市民の期待に応え、この夏の浜名実業はしぶとい戦いぶりで接戦をことごとくものにして決勝まで進んできたのだった。
「十四年前の浜実は、憎たらしいくらい強かったですよ。」
決勝の審判員に選ばれたとき、和真は磯村にそう言った。
「南雲は遠州第一高校の出身だったっけ?」
そうです、と答え、準々決勝で対戦したその相手にボロ負けを喫したエピソードを話した。
「もともとうちは八強でも出来すぎ。その時点で満足していた気がします。」
ふわっとした気持ちで試合に入ったらいきなり強烈なパンチを食らった。初回に六点を取られ、その後も毎回のように失点し、準々決勝以上はコールド無しという大会規定も手伝って最終的には二十点差をつけられた。あまりの力の差に悔しさすら無かった。
「その時が今に至るまで最後の甲子園になるとは彼らも思っていなかっただろうけどな。」
いずれにせよ今日の試合はかなりタイトなゲームになると思うぞ…。
磯村の予想は、見事に的中することになる。
八回の裏、浜名実業が逆転のチャンスを迎える。二死から連打が出て走者一、三塁。打順は四番の宮口雄平にまわってきた。洋明のエース荘村滋の球威は、前の七回あたりから明らかに落ちていた。
慎重にコーナーをついたストレートが二球続けてボールとなり、ストライクを取りに来た甘い三球目を宮口が強振すると三塁線際どい所にファウルライナーが飛んだ。
和真が両手を挙げてファウルのジャッジをすると球場全体にどよめきが広がる。マウンド上の荘村は大きく息をつき、宮口は少しだけ悔しそうな表情を見せただけで再びバットを構え相手エースを睨みつける。
和真はこの打席が試合の行方を決定づけるだろうと予想していた。荘村のストレートはすでに伸びが無く強打者の宮口がとらえるのはさほど難しくない。もし長打が出れば同点に加え逆転の走者がホームへ戻ってくる。単打で同点止まりだったとしても続く五番打者もこの打席までに荘村から二本のヒットを打ちタイミングは合っている。そして浜名実業が逆転に成功すれば洋明の残りの攻撃は九回の表だけ。池本のピッチングにまだ余力があることも考えると、この試合浜名実業がものにするのではないか…。
むろん公平な審判員の立場として、どちらのチームに勝ってほしいなどという私情は挟めようはずもない。だから結果として浜名実業が勝とうが、あるいは洋明がピンチを脱して逃げ切ろうが、そのことに感情を揺さぶられるという事は全く無かった。ただ野球にはゲームの流れというものが確実に存在し、その流れを掴んだ方が勝利を手にする。そう考えると、宮口の前に逆転のランナーを置くことができた浜名実業にその流れが傾いていることは誰が見ても明らかだった。そして宮口は疲れの見える荘村のボールをほぼとらえるところまで来ている。元プレーヤーとしての勘が、この勝負の結末が見えたと、そう感じさせた。
四球目、荘村は外角高めに外し気味のボールを投げ込み宮口が余裕を持って見送る。五球目は荘村が渾身のストレートを外角低めに投げ込みフォアボールを予想した宮口はそれを見送りフルカウントとなった。勝負の行方は六球目に委ねられることになる。
荘村が投げ込んだ六球目は、ストレートと並んで彼の生命線である縦に大きく落ちるカーブ。それが真ん中やや高めに入ってきた。球速を殺した決め球であるはずのその球を宮口は予測していた。鋭いスイングとともに金属音が響き渡り、打球が今までに無い角度で外野手のはるか頭上を飛んでいく。飛距離は十分。だがライトからレフトへと吹きつける風に乗って打球は左翼ポール際へとドライブしながら落下していく。ファウルライン上に立った和真がボールの行方を凝視する。十四年ぶりの甲子園への夢を乗せたその打球がポールの最上部にさしかかる。フェアかファウルか、ポールのどちら側を通過するのか、球場全体が固唾をのんで見守った。
視界を何かが遮ったのか、それとも意識が飛んだのか、少なくとも和真はその瞬間の記憶が無い。目に映ったのは、打球が急速に勢いを失いそのままスタンドのファウルゾーンに飛び込んだことだけだった。
反射的に和真は両手を大きく広げていた。
「ファウル、ファウル…。」
わずかの空白の時間を経て、球場全体から爆発したような歓声が上がった。
歓声ではなかった。
和真が立っていたレフトポール際の直ぐ近くに三塁側のスタンドがある。そこに陣取った浜名実業の応援団が騒ぎ始めた。視界の端には三塁側のダッグアウトから選手や監督が飛び出して、こちらに向かって何か喚いているのが見えた。
「おかしいだろ。今のポールに当たったぞ。ホームランだ、スリーランホームラン。審判どこ見てるんだ…。」
いや、おかしくない。自分は確かに見たのだ。ボールが勢いを失い、そのままファウルゾーンに落下したところを…。
だが、という考えも頭をもたげる。俺は本当に見たのか? 打球は確かにファウルゾーンに落ちたが、その前にポールに当たっていなかったか? その瞬間を俺は…見ていなかったかもしれない…。
浜名実業の主将を務める遊撃手の遠山峻希がこちらへ向かって走ってくる。和真に近寄るなり大声でまくしたてた。
「当たってましたよね。打球の角度が変わってファウルゾーンに落ちたの、見えてましたよね。」
興奮から目が血走っているのが分かる。何を言っているんだこいつ、という表情でこちらの答えを待っている。
「いや…当たっていない。直接ファウルゾーンのスタンドに落ちた。そういう判定だ。だからファウルだ…。」
そんな…。
遠山が呆然としてこちらを見る。いや、でも…。彼はその場を動かない。
和真はもう一度言った。ポールには当たっていない。だからファウルだ…。
すると遠山はやや落ち着きを取り戻した様子で、和真に言った。
「他の審判にも確認してください。当たっていたかどうか。それでもう一度ジャッジしてください。」
そうすれば今の判定がミスジャッジということが分かるはずだ、そんな確信に満ちた表情でその場に居続けようとする。和真は遠山に一旦ダッグアウトに戻るよう指示し、それから他の審判にも確認すべく、内野を目指して走り出した。
「おい三塁塁審。これでファウルの判定だったらただじゃおかねえぞ…。」
スタンドからの罵声が、この時はっきりと聞こえた。
「打球はポールに当たらず、直接ファウルゾーンのスタンドに落ちた、そう見えたんだね。」
球審の澤木が和真に聞いてきた。
「はい、そう見えました…。」
本当に見えていたのか今となっては確信が持てない。だが自分はそう判断したのだ。だから迷うことなく両手を挙げてファウルのジャッジをしたのではなかったか…。
「あの…。」
口を開いたのは磯村だった。
「私は、打球の落下する角度が不自然に感じました。一番遠くにいた私ですらそう見えたんです。おそらくポールに当たっています。ですから…。」
それを聞いて和真はむしろ救われたような気がした。打球からおそらくは視線を外してしまったのは自分の落ち度だ。審判としてこれ以上の失態は無い。だが自分の落ち度はともかく、これで選手たちが救われる、そう感じたのだ。自分のことは差し置いても選手たちは正しいジャッジを受けられる。その方がずっと良いだろう…。
しかし澤木の発した言葉がそれを打ち砕く。
「一番近くで見ていた三塁塁審がファウルと判断したのだ。判定を覆す必要はない。ファウルでフルカウントからプレー続行だ。」
それに磯村は納得せずに異を唱える。
「三塁塁審の判断はそうだったかもしれませんが、審判もミスをすることはある。私はこれまで多くの試合で審判をしてきましたけど、この球場全体の反応は明らかにジャッジが間違っていることを示しています。三塁側のスタンドからはおそらく当たったところが見えていた。ここはビデオで確認するなりして、間違いならば正す場面です。」
和真もそれに追随する。
「確かに私はファウルとジャッジしましたけど、ビデオで確認していただいた方が良いかもしれません。その方が皆、納得がいく。」
隣で西畑も遠慮がちに頷く。澤木も一瞬、考える素振りを見せたが、次の瞬間表情を戻すと、その場にいた三人を見回し、言った。
「いや、最初の判定通りファウルのジャッジで行こう。場内には私から説明する。」
しかしですね…なおも食い下がる磯村に対し、澤木はほとんど一喝するような口調で告げた。
「いいかい。審判の判定は絶対なんだ。審判がファウルといったらファウルなんだよ。観客の反応にジャッジが左右されるなんてことは、あってはならない。」
それが最終判断だった。澤木は場内アナウンスで打球がファウルだったことを説明し、フルカウントから試合を再開すると言い切った。
「選手たちは必死で戦った。素晴らしいゲームだった…はずです。それだけにあの判定には納得がいかない…。」
試合は結局一対〇のまま終了し、静岡洋明学園が前年夏と選抜に続いて三期連続の甲子園出場を決めた。あと一歩で十四年ぶりの甲子園を逃した浜名実業監督の山内敏文が、言葉に詰まりながら記者たちの質問に答えている。
山内から数メートルの場所では、問題の打球を打った主砲の宮口が毅然と答えた。
「ファウルの判定は仕方ありません。その後三振してしまった自分の力が無いだけです。」
八回裏の浜名実業の攻撃が終わった辺りから場内には異常な雰囲気が漂い始めた。三塁側のスタンドから物が投げられ、それに対して一塁側の静岡洋明学園の応援席からは応酬のヤジが飛ぶ。九回表が始まってすぐ試合は中断され、球場係員が外野に残置された空き缶を拾いに走らなくてはならなかった。そしてそれを片付けると再び何かが投げられ、打席に立った静岡洋明学園の選手がスタンドが落ち着くまでプレーを再開しないよう、球審に要請する場面もあった。
再開後は浜名実業のエース池本が意地の投球を見せ、静岡洋明学園の攻撃を三者連続三振に斬って取り一塁側の相手ダッグアウトに向かって吠えてみせた。空振り三振に倒れた静岡洋明学園の打者がヘルメットを叩きつけて池本を睨む。選手たちもまた、先ほどの判定に苛立っていることを訴えるかのようだった。
九回裏の浜名実業の攻撃はしかし、気負いからか打ち気にはやる打者が荘村の変化球に手を出し、簡単に打ち取られてしまった。前の回と異なりチャンスらしいチャンスも作ることが出来ず、最後は自ら相手に甲子園出場をプレゼントしてしまったような単調な攻撃だった。
閉会式もまた、歓声とブーイングが交錯する異様な空気の中で行われた。静岡洋明学園の優勝をたたえる大会委員長のメッセージの途中にバックネット裏の一般の観客から心無い罵声が飛び、委員長が静聴を呼びかけるシーンすらあった。
「おい洋明、お前らこんな形で甲子園に行って嬉しいか!」
その頃審判団は控室に戻り、運営側からしばらく球場に留まるように言われた。
「大丈夫だとは思うんですが、一部のファンがだいぶ興奮していますので、安全のため少し時間を置いてから送迎の車を出します。」
四人の審判と予備審判の三人は黙ったまま、誰も口をきこうとしない。そのまま長い時間が経過した。
「ええと、すいません…。」
それまでずっと黙っていた二塁塁審を務めた西畑が何か言おうとした時、ちょうど運営役員が控室に入ってきた。
「タクシーが来ましたので二台に分乗してください。自宅まで行かれる市内の方と、静岡駅に行かれる方で別れてお願いします。」
静岡駅に向かうのは和真と西畑、そして予備審判の一人だった。車に乗り込む頃には球場の周囲に人もいなくなっており、やがてタクシーは静かに走り出した。
道中も三人は口を開かなかった。ただ一度だけ、西畑が呟いた言葉を覚えている。
「君だけの責任じゃないのに、君に責任を負わせてしまったようで…何といったらいいのか…。」
責任、という言葉が和真の胸に刺さった。そうか、俺は責任を負わなくてはならないのか…。車窓を流れていく静岡の街並みをぼんやりと眺めながら、和真はまだ、何も考えられないでいた。
最初のコメントを投稿しよう!