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※※※
「試合の映像を見たのは後になってからで、新聞も翌日の朝には読んでいない。ただ職場に行ったら何ていうか…周りの空気が、とにかく変だったことは覚えている。」
勤務先の運送会社から程近い個人経営の喫茶店内で、和真は玉田と向かいあっている。
「同僚や上司からは何か言われたんですか?」
和真は記憶を辿る。いや、辿るまでも無い。鮮明すぎるほどその日のことは記憶に残っている。
「昼休みまではそのまま仕事を続けた。当時、市役所の市民税課に勤務していて、その日はほぼルーティンワーク。地元の企業から提出された申告書のチェックをしたり電話での問い合わせに応じたり。」
昼休みは職員食堂が混雑していて、売店で購入したパンで昼食を済ませ自席で休んでいると課長が別室へ来いと手招きした。部屋に入るとドアが閉められた。
「何でしょうか?」
総務課に苦情の電話が来ている。それも一件や二件ではないという。
「もしかして昨日の決勝戦の判定のことですか?」
他に何がある、という顔で課長は頷いた。
「電話だけではない。直接窓口に来て、名指しで君を呼んで来いと言った方もいたそうだ。対応した職員が、外勤に出ているとうまくごまかしてくれたおかげで帰られたそうだが。」
批判が来るのは高校野球連盟の事務所にだと思っていた。確かに数年前、若手の審判員として地元新聞の取材を受けた際、勤務先が市役所だと記事に書かれたが、それを記憶されていたのか。さらに苦情の電話だけでなく直接文句を言いに来る人間すらいたことに、和真は初めて恐怖という感情を持った。
「もちろん君に対応させるつもりは我々には無い。ほとぼりが冷めれば誰も何も言わなくなるだろう。それまでは窓口対応には出ず、出来るだけ内勤に励んでほしい。」
席に戻ると、隣の徴収課に勤務する同期の男性職員から小声で聞かれた。
「同情はするが…何であんなジャッジをしちまったんだ? スポーツニュースの映像でも、打球は完全にポールに当たっていたぞ。」
ニュースは見ていない、と和真は答えた。同期の男性はさらに続ける。
「浜実は市内でも一番ファンの多い学校だ。特に年配の人たちは甲子園の常連だった頃のことを記憶している。そのチームの久々のチャンスをあの判定で台無しにしてくれたって、皆そう言っている。」
途中から和真はその同僚の話が耳に入ってこなくなった。その時点で一つの考えが、頭の中でまとまりつつあった。
そして翌日には半休を取って、静岡市内にある県の高校野球連盟の事務所に向かった。
「誰も反対しなかったよ。分かった、君の意志なら仕方がない…そう言ってあっさり受け入れてくれた。止める人などいなかった。そのまま連盟の事務所を後にしようと思ったんだけど、少し気になって聞いてみたんだ。」
他の審判の方たちは、どうしていますか…?
「磯村さんも君と同じように身を引きたいって言ってきた。ただ彼は今回のジャッジに直接関わっていたわけではないので考え直すように言った。」
当然ながら自分とは対応が違うのだと、今さらながら思った。もう一人様子を知りたい人物がいた。
「澤木さんはどうされています?」
その問いに、対応した職員は少し黙ってから、
「今日の午前中にいらしたよ。審判副委員長として無事大会を終えることが出来ましたって報告がてらね。」
あのジャッジについては何も言っていなかったのか?
「特に何も…。僕らもそれについてはその場で話題にしなかった。その後、来月から始まる秋季大会の件で理事長と打ち合わせをして帰って行ったよ…。」
「当時自分は三十二歳で、決勝を担当する審判員としては最年少の一人だった。三つ年上の磯村さんも俺と同じ年齢のときに決勝の審判に選ばれている。だから俺は磯村さんと並んで期待の若手だってずっと言われていた。審判員は四十代後半や五十代のベテランが大半だったから、数少ない三十代は重宝がられていたんだ。」
あの試合まではね…。
「審判員を志したのは大学生の頃だってお聞きしましたけど、どういうきっかけで?」
「大学生の夏休みに母校の練習を見に行って、そこで監督から紅白戦の審判をやってくれって頼まれたのが最初。自分ではどうとも思わなかったけど、監督…野田先生って言うんだけど、その人から南雲は審判の素質がある。もし興味があったら資格講習を受けてみないかって言われたんだ。資格を取って最初は練習試合から、そのうち公式戦も担当できるようになるし、上手くすれば甲子園にも行けるぞって…。」
卒業後には地方公務員として地元に帰ることを考えていたので、仕事と並行してボランティアで高校野球の審判員を務めるのも面白いかな、と思うようになった。大学では軟式野球をやっていたが卒業後にプレーする見通しは無かったし、ならば選手としては続けられなくても別の形で野球に関われるのであれば喜ばしいことだと感じた。
「その後は市役所に就職し、審判員の資格も無事取得。やがて夏の県大会の審判を務めることもなります。順調だったんですね。」
「公務員ということもあってか職場の理解も得られてね。夏の大会は約二週間行われるけど、そのうち半分程度は審判員として駆り出されることになる。上司や同僚としては仕事に穴をあけられるのは迷惑だったと思うけど、そんなことは一度も言われたことも無く、いつも、頑張ってこいよって送り出されていた。」
そしてあの決勝戦、となるわけですね…。
「本当にありがとうございました。長々と話していただきまして。」
玉田はそう言って机に接するくらい頭を下げた。
「先日は邪険な対応をしたけど、俺もこんなに話したのは初めて。不思議と少しだけ気分が晴れたような気さえする。」
急に応じてくれて正直驚きました。先日の感じだと、もう一回行っても追い返されるだろうなって、そう思っていたんです…。
「ある人に相談したら、受けてきたらって、そう言われたもんでね。どうせ記事になるのは一部だけなんだから、聞いてくれる人に思っていたこと全部話してみたら、そうしたら気が楽になるんじゃないかって言われた。」
まあ過去の事実は消えないけど、とりあえず当時の話はこんなところ。あとは前にも言った通り、玉田さんが好きに書いてくれればいいよ…。
時効とは思っていないけど、長い時間がたっているしね…和真はそう言って笑った。
「それで、もう一つだけ、重ねてのお願いがあるのですが。」
これで取材が終わりだと思っていた和真は、内容も聞かずに、いいよ、と答えていた。
「その後の話を、もう一度お時間をいただいてお聞きしたいんです。」
審判を辞めて、その後浜松を出て、今ここにたどり着くまでのお話を…。
沈黙が二人の間に落ちた。和真は下を向いたまま、返答できないでいた。
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