0人が本棚に入れています
本棚に追加
※※※
「どうだった?」
アパートに帰ると先に森園ちなみが来ていた。何が? と聞き返すと、取材のこと、と答える。わかってるくせに、という表情で鼻のあたりで小さく笑う。
「いろいろ喋ったら何だかすっきりしたよ。十四年間誰にも話してこなかったからね。」
嘘、とちなみが言う。何が嘘だよ、と言い返すと、声がくぐもっている、と独特の言い回しで指摘する。仕方が無いので事実を告げる。
「もう一回取材したいって。今日話したのは試合の時まで。その後の話が聞きたいって言われた。試合の記事を書くんじゃないのかって聞き返したけど、いろいろバックボーンを知りたくなって、とか言われて。考えておくと言って逃げ帰ってきた。」
俺の話なんかそんなに必要かねえ? 家着用のTシャツに着替えリビングテーブルの椅子に座ると、冷たい麦茶が出てきた。
「今日は川の湯に行って、そのあと中華でも食べてこようか?」
前日まで月締めの仕事で残業続きだったちなみは、少しだけ疲れて見える。料理を作れない和真が出来る、せめてものちなみに対するいたわりの気持ちだった。
「いいよ、賛成。」
話がまとまると着替えと財布をバッグに詰め、あとは彼女の用意が整うのを待つことにする。
短大を卒業したちなみが房波運輸に入社してきたのは四年前のことだった。どこか不機嫌な表情に茶髪という外見の彼女を見た時、何かヤンキー上がりみたいな女が入ってきたなと感じたことを覚えている。人に媚びないタイプのちなみは、予想通り入社当初は三人いる先輩の女性社員から陰口を叩かれることも多かった。しばらくは周囲とも打ち解けず、これは半年も持たずに辞めるのではないかと和真は予想していたくらいだ。
「これ、地毛なんです。」
あるとき渋滞に巻き込まれて帰社が遅くなった和真が事務所に戻ると、一人で残業していたちなみと二人きりになった。その時に彼女が言った言葉だ。和真はどう反応して良いのか分からず黙っていると、
「高校の時も染めてるって誤解されて、よく職員室に呼び出されました。こちらの話を最後まで聞いてくれなくて、結局黒く染めさせられたこともあります。」
なかなか大変だったんだね…。
そんなとぼけた返答をしたような記憶がある。二十二歳も年下の若い女とどう会話したらよいのか戸惑い、逃げるように事務所を出かけた時、背中から呼びとめられた。
「あの…お腹、すいてませんか?」
時計を見ると既に八時半を回っている。昼飯以降何も口にしていなかったので空腹には違いなかった。事務所にいる女性社員はたいてい机の中に菓子などを潜ませている。それを自分にも分けてくれるのかと思い、すいているよ、と答えると意外な反応が返ってきた。
「もしよかったらラーメンでも付き合っていただけませんか? 私も晩御飯がまだで、コンビニで買って帰って一人で食べるのも寂しいので、ご迷惑じゃなかったら…。」
どういうつもりなのか、とも思ったが、自分から会話を振ってくる相手は苦手ではなかった。口数の少ない和真にとって、言葉の隙間を勝手に埋めてくれそうなこの女となら、晩飯くらい付き合ってやってもいいような気がした。
「そこの竜王軒でもよかったら、行こうか。」
よかった、ありがとうございます…。
笑顔を見たのは、おそらく初めてだった。いつも機嫌の悪そうな顔をしている女にしては可愛い表情を持っているなと、その時はそう思った。
「和真さんは? 飲む?」
ちなみは瓶ビールを手酌で飲んでいる。最初の一杯しか口にしなかった和真のグラスに注ごうとしてきたが、和真はそれを断った。
「明日、早いし。残っていたら仕事にならないからね。」
まだ九時前なのに? とちなみがちょっと不満そうな表情を浮かべる。
「飲みたいんだけど俺、前科一犯だし。」
逮捕されてないでしょ、と笑う。社会人にとっては逮捕と同じくらいのダメージがあるよ、と苦笑いで逃げる。特に市民に奉仕する地方公務員ならなおさら。
「俺は餃子一皿追加するけど、どうする?」
私はビールもう一本でいいや、と答える。月次決算が終わり翌日に有給休暇を取っているちなみは、本当は二人で飲みたかったのだろうと、少しだけすまない気分になる。明日は五時起きでハンドルを握る。行先は群馬県の館林。昼過ぎに納品を済ませ、その後埼玉県の熊谷で別の荷物を積んで千葉に戻る。休暇のちなみは寝かせておいてやるつもりだ。
狭い店内の一角で不意に歓声が上がる。ボクシングの世界戦を中継しているらしく、日本人の王者がKO勝ちで防衛を果たしたらしい。
「あの左のアッパーが当たったら起き上がれないよなあ。」
二人組の中年男性がテレビを見上げてコメントをしている。和真とちなみも画面に視線を合わせながら、すごいね、と呟くだけで、それ以上話題にすることは無い。
最初のコメントを投稿しよう!