軌道

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               ※※※ 「正直、今回こそ応じてくれるとは思っていませんでした。僕もあきらめないつもりでしたけど、八割がた断られるんじゃないかって…。」  本当にどうして続きの取材を受ける気になったのか、和真自身も不思議に思うほどである。 「で、どこから話せばいい?」  もう開き直ってそう聞いた。話すよ、話せばいいんだろ。何の為なのか俺にはさっぱりわからないけど…。 「前回は審判員を辞めようと連盟に行って受理されたところまでです。本日はその先から、ということで。」  電話や窓口での苦情は一旦は無くなったものの、タイミング悪く数日後にテレビのスポーツニュースで例の場面が放送されたことで再燃することになる。全国の予選の様子を毎年放送している番組が静岡県大会決勝で起こった「誤審騒動」を取り上げたからだ。 「選手たちは必死で戦った。素晴らしいゲームだった…はずです。それだけにあの判定には納得がいかない…。」  言葉に詰まり、最後は涙を拭う監督の山内の姿と、試合直後のインタビューでは気丈に答えていたが数日後の取材で思いのたけを口にした主砲の宮口の様子は、多くの視聴者の同情を誘った。そしてそれに乗るようなキャスターの言葉が、画面の向こうの多くの高校野球ファンの気持ちを代弁したものとして全国に拡散された。 「球児たちは甲子園を目指し全てを賭けて戦っています。本来ならそれをサポートするべき大人たちは、彼らの思いに応えるよう全力で正確なジャッジすべきです。」  まるでいい加減で無責任な判定を下したと言わんばかりのコメントである。さすがにそこまで否定されるいわれはない。そうは思うのだが、ミスを犯したことも事実だ。それも取り返しのつかないレベルの。  スローで再生されたその場面、打球は確かにポールに当たってファウルゾーンのスタンドに落下している。ルール上誰が見てもホームラン。正しいジャッジがなされていればここで三点を加えた浜名実業が、おそらくは甲子園に行っていたはずだ。  なぜ俺はこんな明らかなシーンを見間違えたのか、いや見間違えたのではなく見逃したのか…。  何度考えても分からなかった。何かが横切ったことで視界が塞がれたわけでも無い。光の反射で見えなかったわけでも無い。ただ、目に入らなかったのだ。打球がポールに接近し、次に気づいた時には既に軌道が変わってファウルゾーンに向かって落下していた…。 「僕は…あの打球は完璧だったと思っています。判定だから仕方ないですけど、今でもホームランだと思っています。でも結果的にホームランにはならずチームも甲子園に行けなかった。どこが足りなかったのか、それを探すためにも次のステップで野球を続けるつもりです…。」  選手が判定を非難することは当時も今もご法度といった空気はある。それを分かった上で宮口は恐らくギリギリの表現で自分の思いを口にしたのだろう。それが痛々しく、同時に和真の中にも彼や彼の仲間たちに対して申し訳なかったという気持ちが素直に湧き上がってくるのを感じた。出来ることなら、と思った。あの試合のあの時間に戻ってこの目で確かめジャッジしたい。自分にとって空白となったままの、ほんの数秒にも満たない間の出来事を…。  批判の矛先は甲子園出場を決めた静岡洋明学園へも向けられた。「疑惑の優勝」「審判に助けられた甲子園出場」など、鍛えられた守備や機動力で勝ち進んできたそれまでの試合については全く語られることも無く、決勝の試合の後から甲子園での一回戦に臨むまでの間、ほとんど「あの判定」のみがフォーカスされてしまったのはチームにとって気の毒だったとしか言いようが無い。 「その件について質問するのはもう控えていただきたい。選手は一回戦に向けて集中している時なので。」  監督が報道陣に向かってそう訴えるシーンがテレビで放送されると、その事がまた批判を浴びるという悪循環となった。結果として静岡洋明学園は一回戦で優勝候補だった大阪代表の高校と当たり、ほとんど見せ場すら作ることができず十五点差をつけられて大敗した。そこまでの実力差があったとは思えないのだが、県大会決勝以降の周囲の雑音により選手たちが試合に集中できなかったことは想像に難くない。  翻って浜名実業の周辺ではこんな声が聞かれるようになる。 「洋明ではなく浜実が出ていれば、あれほど無様なゲームにはならなかったはずだ。」 「本当は浜実の方が強かったし、事実誤審さえなければ勝っていた。」  そして双方の高校にとっての不幸の元凶となったのがあの誤審だった、というところに収斂していく。 「職場に電話がかかってくる。最初は役所の代表番号だけだったけど、そのうちどこで知ったのか俺の所属部署まで直接電話が来るようになった。普通の問い合わせかも知れないから取らないわけにもいかない。同僚が出ると、南雲って奴いるか、と。そこから長い時には小一時間。全然仕事に関係のない対応を迫られる。外勤に出ているというとじゃあ何時に戻ってくるのかって聞いてくる。ただ怒鳴って電話が切れる場合もある。いずれにせよ部署の人間は言われのないストレスで疲弊する。そしてある日、上司に呼び出された。だいたい予想はついていたけど。」  外部との接触がほとんどない部署への異動だった。    自身が直接見たわけではないが、ネットでは真偽不明な噂も飛び交った。主なものとしては、和真が高校時代に浜名実業に敗れた過去があり誤審はその時の復讐ではないか、というものと、和真が静岡市の出身で洋明びいきの判定をその場面に至るまでも行っていたというものだ。高校時代の戦績は事実だが判定がその時の仕返しなどというのは完全な言いがかりである。静岡市には五歳になるまで住んでいたが特段洋明に親近感は無く、また例の判定以前にも洋明寄りのジャッジをしていたというのも根拠のない後付けの憶測としか言いようが無い。そういったことを職場や近隣の人間が、他の誰かがそんな話をしていた、という形で知らなくてもいいのに教えてくれたりする。 「一番堪えたのは、彼女の両親から呼び出された時だったかなあ…。」  これは本当に取材なのか、そんなことを思いながら和真は玉田の質問に答え続ける。 「その頃には自宅にも電話がかかってくるようになっていた。あの試合から一か月以上たっていたけど、まだ怒っている人がいるんだって、そんなことを思っていた。自分は審判を辞め、職場でも異動させられ、仕事以外ほとんど外出もしていない。一度だけ彼女と街中に行った時、普通に店に入ったら絡んできた中年の男がいて、昼間なのにアルコールの匂いをさせてしつこく俺に当たって来たから速攻で店を出た。俺の顔が何でわかったのかって思ったけど、後で知ったらやっぱりネットで俺の写真が出回っていたらしい。」  高校の同級生で、社会人になってから交際を始めた白坂裕理とは十一月に結婚する予定だった。お互いの両親にも既に紹介を済ませており、挙式に向けての準備も始めていたタイミングだった。 「すまないが、結婚を延期してくれないだろうか?」  いろいろと小言を言われるのだろうとは覚悟していたが、まさか結婚の延期を言い渡されるとは予想していなかった。 「君の置かれた状況は知っているつもりだ。そのことについてとやかく言うつもりはない。ただ今の状態を考えた時、二人を万人が祝福できるかというと、ちょっと考えた方が良いと思って、それで君を呼び出した。」  たしかに親族や近所の人の中にも、自分を腫れ物に触るような視線で見る人間が出始めていたことは事実だ。  彼女はなんて言っているんです…? 本人がどう考えているのか知りたいと思った。その場に彼女は同席していなかった。 「娘はもちろん君と結婚したいという気持ちは変わらないと答えている。だが君が職場や自宅、あるいは街中で危険な目に遭うことがあると聞かされた以上、娘に同じ思いをさせたくないという親の気持ちも、理解していただきたい。」  安心してほしい。君の今の状況がこれからずっと続くとは思っていない。そして落ち着いたらもちろん式を挙げてもらって構わないと思う。それまで少しの辛抱だ。ここはどうか聞き入れてもらいたい…。 「彼女の父親は全国的に有名な楽器メーカーの部長職にあって、彼女自身も同じ会社で総合職として働いていた。世間的なバランスを考える人間で、公衆の面前で失態を犯し、職場でも閑職に異動させられた俺では娘の相手に相応しくないと考えたんだろう。もしかすると延期は一つのクッションで、結果的には婚約解消に追い込むつもりだったのかもしれない。今となっては分からないけど。」  その後和真は白坂裕理と何度かコンタクトを試みるも、電話で話すことしか出来ず、延期された式をいつ挙げられるのか、最後までその答えを得ることも出来なかった。再び白坂家を訪問して直訴すべくアポイントを取ろうとしたこともあったが、それも多忙などの理由で反故にされたまま、その年の年末を迎えることになる。  異動先の資料課で忘年会が行われたのは街中から離れた浜名湖畔に近い割烹だった。ネットに顔写真が出てしまったことで絡まれたりする危険性のある和真を気遣って、その部署の所属長が選んでくれた店だった。久々に酒を飲み良い気分になった和真は宴会終了後、運転代行を頼んで帰路についた。交通機関が不便な立地だった為、自家用車を使って店に行っていたのだ。  自宅まで百メートルのところで下車し、代金を払った。そこから先は狭い路地となるため、ここでいいと断って代行の業者を帰らせた。アルコールは入っていたが直線の路地を進むだけなので何の問題も無いと考えていた。  車を動かした瞬間、数十メートル先に隠れていたパトカーの赤色灯が点灯し、サイレンが響くのが分かった。  和真はサイドブレーキを引き、車内で天を仰いだ。やがて運転席の窓ガラスを叩く音が聞こえ、視線をやると二人の制服警官が車を降りるように言った。
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