軌道

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               ※※※ 「反省よりも、怒りの方が大きかったかな。」  四度目の取材で、和真は酒気帯び運転で検挙された後のことを話した。 「わずか半年の間で結婚間近の安定した公務員という立場と、いずれは甲子園でジャッジする審判員としての目標という、二つの基盤を失ったわけだから。」  審判員の役目を辞し、仕事も婚約者も失うとはいったい何の因果か、とも思った。 「俺はそんなに悪いことをしたのか、ここまで追い込まれなければならないなんてさすがに理不尽じゃないか、そういう思いだけで日々過ごしていた。」  今にして思えば、全て自分が原因。悪いのは俺自身だったんだけどね。その時はそう思えなかった。あまりにいろいろ重なりすぎて誰かを恨むしか気持ちのやり場が無かった。  婚約破棄を言い渡した白坂裕理の父親、自分を異物のように追いやった元の職場の上司、街中で自分に罵声を浴びせた見ず知らずの中年男、ネットに書き込んだ数多のユーザー、報道で和真の責を問うたニュースキャスター、そして試合のとき和真と磯村の進言をはね付け最初のジャッジを貫き通した挙句、和真に責任を負わせるかのごとく自分はその後も何食わぬ顔して審判員を続けた球審の澤木…。 「自分を検挙した警官にも同じ気持ちだった。やり方が汚いだろうって。もしかして俺を狙っていた? こいつは何かをやりそうだって、そう思って張っていたんじゃないかって。」  そんな妄想じみた考えを、当時は本気で持っていた。 「白坂裕理さんと最後に会ったのはいつでしたか?」  確か年が明けてすぐの寒い時期。父親からはすでに面会禁止を言い渡されていたので、彼女の仕事が終わるのを見計らって、車の中で一度だけ話した。むろん彼女の車である。 「自分の両親と彼女には申し訳ないという気持ちがあった。助手席に俺が座り、運転席は彼女。お互いにお互いの状況は分かっていて、修羅場にはならなかった。これは結婚できないなって。」  一つだけ彼女が聞いてきた。そのことは良く覚えている。 「どうして、あのジャッジをしてしまったの?」  すべてはそこから始まった。責めるとすればそこなのかな、と。 「軌道が変わった瞬間を、見ることが出来なかった。それがすべてだと思う。」  そう答えた。彼女からの返答は無かった。 「市役所は一月末で退職した。公式な処分は停職三か月だったけど人事部長から呼び出されてね。これから働き続けても君を主要な部署に配置することは出来ない。自己都合なら退職金も出せるから、まだ若いしその方が君にとって良いのではと…。」  浜松に居続けるのは苦痛でしかなかった。自分の両親にもそう話した。そして東京で仕事を探し、しばらくはそちらに住むとも伝えた。反対はされなかった。  浜松を出るとき、母親に重ねて頼んだことがある。 「俺の住所は誰にも教えないでって、そう言った。」  愚直なまでに母親がその頼みを守ってくれたおかげで、今では職場の同僚や学生時代の友人との連絡手段が殆ど途絶えている。一部では自殺の噂が流れたこともあると、ずっと後になって聞いた。 「彼女はいま、元気にしている?」  和真は玉田に問うた。自分の居場所を知っているのは両親を除けば、白坂裕理しかいないはずだった。               ※※※  今は独立リーグでプレーして二年目になります。アメリカから戻って来てようやく日本の野球にも慣れたところです。三十二にもなってまだ夢を追っているって自分でも馬鹿なんじゃないかって思うこともありますけど、まだやり切った感は無いので…。  浦和機械製作所でプレーして都市対抗にも出て、いずれはプロからお呼びがかかることを信じて続けていたんですけど、二十八の時に故障もあって会社から社業専念、つまり野球選手としては戦力外通告を受けてさてどうしようかと。上場企業ですからここで一般社員になって安定した生活をしていくのも確かに選択肢としてはあったんですけど、やはり何というか…一度でいいから甲子園でプレーするのが夢で、それにはプロになるしかなかった。  社会人野球で他のチームに移っても多分ドラフトで指名されることはもうないだろうし、その間に故障も癒えてきたから、それならいっそ本場の野球に挑戦してみようかって。それで会社を辞めてマイナーリーグのテストを受け、最終的には2Aまで行きました。いいプレーヤーだけど年齢的に契約できないって言われて、そして戻ってきたのが一昨年。  当時のチームメイトですか? みんな社会人として立派に働いていますよ。エースだった池本とは今でも連絡を取っていますね。彼は教員になって今年の春から母校の監督になりました。浜名実業はあれ以来甲子園に出られていなくて、今では毎年二回戦くらいで負けている。誰も強豪とは言わなくなりました。彼は自分が復活させるんだって息巻いています。簡単じゃないとは思いますが何とかやり遂げてもらいたいですね。  あの試合のことですか? 時々ですけど複雑な思いに駆られることは正直あります。いえ、正しいジャッジがなされていたら、とかそういう事よりも、あの試合に関わった人たちがその後どうなったのかなって。  気になっている人が二人いるんです。一人は洋明のレフトを守っていた柳川君という当時二年生の選手。彼は甲子園でもプレーしたんですけど、あの打球がポールに当たったところを見ていたはずだって、言われのない非難を受けて三年生になる前に野球を辞めてしまったと聞いています。見ていたんなら正直に言えよって、そういうことですよね。でもそんなこと自分から言います? 僕だったら言わないですし、言いたくても言えないと思います。言ったところで覆るかどうかもわからないし、それこそ甲子園に出られるならどんなことでもしたいって、そう思うのが普通じゃないですか。僕らはそのくらいの思いで厳しい練習をしていた。  もう一人はファウルとジャッジした三塁塁審の方です。もちろん文句を言いたいわけではないです。その後のことでいろいろな噂は耳に入ってきていて、単純に今お元気にされているのかな、という気持ちです。僕はもうこだわりは無いですけど、一つだけ聞いてみたいのは、あの時その方の目に僕の打球がどう見えていたのか、ということですね…。 「宮口さんへのインタビューの中に貴方のことが出てきたので興味を持ったのが最初です。プロに進まなかった逸材という括りで何人かの元高校球児に話を聞いて記事にする予定だったんですが、例の試合のことは僕も記憶にありまして、その頃僕は横浜に住んでいたんですが全国ネットで報じられた出来事だったから覚えていたんだと思います。だったら試合とその判定にフォーカスしたコラムが書けないか、方向性を変更して改めて取材を始めたというわけです。結果として応じてくれたのは宮口さんと南雲さん。他の方にも申し込みましたが、大した話が聞けなかったり断られたり。」  あとは連絡先すらわからない人もいました…。 「取材の申し込みは、ほかに誰に?」 「この原稿にも出てきた柳川さんですけど、連絡先を知っている人がほとんどおらず、ようやくにして探しあてたもののきっぱりと断られました。野球の話はしたくないって。今どこでどんな人生を送っているのかも書かないでくれって念を押されました。」  他には? 「宮口さんのチームメイトの池本さんは取材には応じてくれたものの、教員という立場上、現況を書くに留めてくれって言われました。当時の両チームの監督お二人にも申し込みましたが洋明の山中さんには断られましたし、浜名実業の山内さんは病気で取材対応が出来ないってご家族から申し出がありました。洋明のエースだった荘村さんは結局連絡先が分からずでしたね。」  当時の審判員にも打診したのだろうか? 「一塁塁審の磯村さんは現在海外赴任されていて取材のタイミングが無く断念しました。それから主審の澤木さんですが…。」  数年前に病気で亡くなられていました。県の審判委員長を務められていたとお聞きしたんですが、まだ六十を過ぎたばかりだったと…。 「もう一人、二塁塁審だった西畑さんについてですが…。」  玉田が少し言いよどんだ。あまり良くない予感がした。  君だけの責任じゃないのに、君に責任を負わせてしまったようで…何といったらいいのか…。  自分に寄り添ってくれていたことは分かっていた。だがそれならなぜその時に言ってくれなかったのか。判定を変えないと頑なに言い張る澤木を、磯村も含めて三人がかりで説得すれば誤審は正され、あの試合に関わった人たちのその後の人生が全く違ったものになっていたのではないか? 事実澤木は一瞬、判定に対して考えるようなそぶりを見せていた。もう少しの加勢があれば、彼も判断を変えていた可能性があるのだ。 「優しい方だったんだと思います。南雲さんが仕事を辞めて浜松から去ったことを知って、その頃からふさぎ込むようになったと聞きました。市内で釣具店を営んでいたそうなんですが、次第にアルコールに逃げるようになり、仕事にも気持ちを注げなくなって店はその後廃業したそうです。今では本人ともご家族とも連絡が取れません。」  酔って口にするのは、審判など二度とやらない、だったそうだ。 「一度だけ、夢に出てきたことがある。」  質問にではなく、和真が自分から答える。玉田は黙って聞いている。 「打球がポールの左側を通過してファウルゾーンに落下する夢を。ああ俺のジャッジは正しかったんだ、自分のミスで多くの人の人生を変えてしまった訳じゃないんだって。」  房波運輸に就職する前、まだ立川にある冷凍倉庫で契約社員として働いていた頃のことだ。何で今頃、と思ったけど、それきりそんな夢は見ない。背負ったものから逃げ出したいという無意識がそうさせたのか。逃げられないことを理解してからは、夢に出てくることも無くなった。 「宮口さんに同じ質問したことがあります。答えは、あの時のことが夢に出てきたことは一度も無い、でした。」  和真は下を向いてふっと笑った。 「立派な人なんだな…。」  そんな人間と、この俺とを同列に扱うようなコラムが果たして成り立つのか、そう思って和真は玉田に聞いた。  その答えに、和真はしばらく言葉を返せなかった。               ※※※  いつものように駐車場まで玉田を送り、それから自宅まで徒歩で帰る。ちなみは今日も来ないはずだ。 「取材は多分、今日で終わりです。今まで本当にありがとうございました。」  あとは電話での問い合わせをするかもしれないが、面会はこれが最後だと、玉田は頭を下げた。  別れ際に玉田は、白坂裕理に関する情報を話してくれた。 「楽器メーカーを退職した後、名古屋でイベント企画会社を立ち上げて経営しています。メーカー在職時の人脈を生かして結構活躍されているようです。」  仕事の出来る女だとは感じていたが、独立しているとは思わなかった。 「四年前にイベントで知り合ったホールの音響技師の方と結婚して、今は名古屋市内に住んでいるそうです。」  四十過ぎまで独身だったという事も初めて知ったが、それでも今現在幸せになっているのであれば良かったのではないかと、和真は思った。  最後に玉田はこんなことを答えた。コラムが成り立つのかという和真の質問に対してである。 「僕は、取材対象の方に感情移入しすぎるのかもしれません。それは時として客観性を失い、文章の整然性も失います。けど、思うんです。それすらなくなったら逆にノンフィクションを書く意味なんてあるのかなって。僕は貴方や宮口さんを取材して興味を持ったことは確かですし、その人たちのことを読者に届けたいという気持ちは当然あります。それと同時に、取材させて頂いた方々のこの先の人生が、何か良い方向に変わったらいいな、と思ったことも事実なんです。あの試合、あの出来事、それに立ち会った人たちは多分誰も悪くない。それなのにほとんど誰も幸せにならなかった。懸命にやったことがほんの少しのズレから誰も望まない方向に転がってしまった。それはおかしいなって…。」  取材した方の多くは、あの出来事で一度はぺしゃんこにされています。そこからどうにか立ち直った人や、今まだもがいている人や、いろいろな人がいます。そんな人たちに向けて、いえ、この出来事だけじゃない。他の事件や事故を経てしんどい思いをし続けている多くの人たちに、僕の文章が少しの助けにでもなれば、そう思って書き続けています。こんな無名のライターが生意気を言っているように思われるかもしれませんが、僕は大真面目です…。  国道十六号線を挟んだ工場地帯からは今日も白煙が上がっている。それを見るのはいつも夕暮れ時だ。事務所に戻ろうとして考えを変え、トラックに乗り込んでちなみの携帯番号を探す。取材が終わったことを知らせ、今日の夕飯にラーメンをつきあってもらおうと思い。
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