【三日目】-1

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 このままだと溺れてしまう。咲那はホウキの柄を持ち、ドアノブを何度も叩いた。その間にも、液体の水位は増していく。  トイレの中は血の匂いで充満していた。 「誰かいませんか! 開けてください! 誰か!」  ドアを必死に叩いて助けを呼ぶ。開いた口に汚水が流れ込んできた。  生臭い鉄くずみたいな味に吐き気がしてくる。つま先が浮き始め、咲那は顔を上げて浅く呼吸を繰り返す。 「……だれか。助けて!」  精一杯の声で叫んだとき、ドアがようやく開いた。寄り掛かっていた体が、トイレの外に倒れ込む。 「大丈夫ですか?」  ドアを開けた看護師の男が咲那の顔を覗き込む。不思議そうな看護師を見上げ、咲那は自分の体に目をやった。服にも手にも、あの赤黒い液体はついていない。  トイレを見ても、綺麗に清掃された床や壁があるだけだ。 「今、赤ちゃんの声がしませんでしたか?」 「いや、聞こえませんでしたけど。ここ、産婦人科でも小児科でもないですし」 「でも! 確かにさっき」  看護師は何かを察したように視線をそらした後、咲那に笑いかけて「立てますか?」と手を差し出した。咲那は彼の手を取り、立ち上がる。 「すみません、私の気のせいでした」  看護師の顔を見ることなく、逃げるように咲那は病院を後にした。  あの時の看護師の目の意味を知っている。彼の目は、母親が父の幻覚を見ているときの自分の目と同じだと咲那は気づいた。  一体、どうしてしまったのだろう。最近こういうことが多い気がする。そんな自分が嫌で仕方ない。  なによりも、母親のようになるのが怖かった。ずっと見ないふりをしていた感情が顔を出す。妄想だったはずの血のような汚水の臭いが体にこびりついている気がして、咲那は口元をおさえた。
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