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誰も食べる人がいないのに用意された料理にも、誰もいない場所に話しかける母親にもすっかり慣れてしまった。
これが浅保家の日常風景だった。
「ごちそうさま」
手を合わせながら、咲那は頭の中で、こぶた、たぬき、きつね、ねこと唱えた。これは小さいころから、咲那が心を落ち着けるために唱えているおまじないだ。
「二人ともいってらっしゃい」
黒いリュックを背負って咲那は、幻覚の父親と一緒に母親に見送られながら家を出る。
「おはよう、咲那ちゃん」
「おはようございます」
家を出ると、すぐに近所の人たちが口々に挨拶をしてくる。一人一人に挨拶を返しながら、咲那は海岸沿いの道に出る路地を曲がった。
ちょうど、島の裏手に住んでいる高校生たちがバス停から降りて来るところだった。ドアが閉まる音がして、バスが走り去っていく。
島には一つしか高校はない。通う学生も少ないため、全校生徒が顔見知りのようなものだ。
咲那は数人の同級生たちとすれ違いながら、待ち合わせている友達を探した。
ボブヘアの女子高生が、咲那を見つけて手を上げる。同級生の中でもひときわ小柄な坂口乃蒼が、精一杯腕を伸ばして飛び跳ねて咲那にアピールしていた。彼女が跳ねるたびに焦げ茶の髪が宙に舞って、生きものみたいだ。
相変わらず朝から元気な友人に苦笑しながら、咲那は横断歩道を渡った。
「おは――」
乃蒼に手を挙げてあいさつしようとした咲那の視界を、灰色のブレザーが遮った。
「まだ勝手にバスを使っとるんか! お前は乗るなって言ったじゃろうが」
中学生にしては背が高く、肩幅のがっしりした男子生徒が、乃蒼を見下ろしている。
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