できごころ

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できごころ

 つい、できごころで。なんて。  そんなに軽い一撃で自分の存在をちっぽけなものだと思わされたのは、未海にとって小学五年生の夏以来のことだった。  軽音サークルの新歓コンパで意気投合したことがきっかけで付き合った宮永翔との関係に唐突に終わりが訪れたのは、未海が二十歳の頃の梅雨時だった。まさしく音ずれたって感じだな、軽音だけに。と未海の頭の中にくだらない言葉が湧き、振り払おうにも振り払えないそれは彼女の頭をいっぱいにした。 「ちょっと魔が差しただけなんだ。最近、お前、うちに来ても家事だけしたら疲れたから寝る、って感じだったじゃん。だからそれが、寂しくて。心が空っぽだった、っていうかさ」  洗うものが一枚も入っていないのに回る洗濯機のように、翔はカラカラと未海が理解できないことを話し続けた。私というパートナーが居ながら心が空っぽとはどういう了見だ。その女は、いつも創作活動だと言いながら流行り曲を譜面に起こすしかしていないのに「寝る時間がない」だの「俺のは夢じゃない、目標だ」だの「俺は音楽シーンに風穴をあける」などとのたまうお前の代わりに炊事洗濯の類をこなしたことが一度でもあるというのか、と未海は憤っていた。穴があいてんのはお前の頭だ、脳みそが流れ出してるんじゃないか、と思ったし、私の目が節穴だったのかもしれない、とも未海は思った。次から次へと思考の波が押し寄せ、燃やした傍から冷やしていくマッチポンプのような自身の性格に未海は辟易していた。  元々、やけに女慣れしているなとは思っていたのだ。そんな部分もまぁ可愛らしものだと思って翔と一緒になったので、いつかこんな日が来ることも予想していた。もちろん、同じくらいにはそうならないことを祈っていたが。  翔の弁明を右から左へ流しながら、未海は冷蔵庫にあった缶ビールを二本取り出してベランダへ向かい、喧嘩をしたときはいつもそうしていたように、内側から開けられないようにつっかえ棒を扉に差し込んだ。後ろで翔がワーワーと何かを叫んでいる。鈴虫が鳴いているような風情とまではいかないが、肌を撫でる湿気を含んだ風との相性は良いように感じた。 「ちょっと。家主がうるさいんだけど、どうなってんの」  隣の部屋に住む本田千絵が、非常用の隔て板からひょっこりと顔を覗かせた。ワンレンのきれいな髪がレースカーテンのようにひらひらと揺れる。 「こうなってます」  未海が翔とつっかえ棒を指さすと、千絵は合点がいったというように笑った。 「乾杯してくれません? 私の今後の益々のご活躍のお祈りに」 「おい私の就活状況をいじってくるんじゃないよ」  未海から受け取った缶ビールを「乾杯!」と雑にぶつけてから、千絵はぐっと呷った。未海はちびりと口をつけ、千絵の喉を見つめていた。 「ついに、終止符になりそう?」  千絵が半分ほどビールを減らしてからそう聞くと、未海は「そうなるんじゃないですか」とぶっきらぼうに答えた。翔の隣に住む千絵は、未海の二つ年上で経済学科の先輩だ。翔の部屋に泊まりに来た二回目の朝、千絵と未海は出くわした。良くも悪くも周りに興味がない千絵は最初、未海が隣人なのだと勘違いし「あのさ、深夜の三時にごみ出しすんのやめてくれない? 缶と瓶を何往復もされるせいで絶妙にうるさい」と苦情を入れたのだ。素直に「うちの彼がご迷惑をおかけしています」と頭を下げた未海に「あ、人違いか、というか言う相手間違いか。ごめんね」という展開になり、そのまま二人とも登校予定だったため同じバスに乗り込んだ。その後は翔のはた迷惑な行動の話で盛り上がり、仲良くなったのが始まりだった。 「あんな馬鹿追い出して、あんたがここに住めばいいのに」  千絵は、もう空になった缶を少しつぶしながらそう言った。 「御冗談を」  未海はあしらうようにそう返したが、千絵のそれは本心だろうな、と感じていた。わざわざ千絵が、未海の隣に引っ越してくることは当然あり得ないし、二人の関係がこれで終わってしまうこともない。ただ、これまでの関係に薄い膜が貼られるような寂しさが二人の間には流れていた。千絵がタバコに火をつけ、煙を吸い込む。未海は、自分の胸にも有毒でもやもやした煙が充満しているように感じた。 「私、実は、千絵さんが隣にいるから翔と付き合い続けてたんですよ」 「なにそれ。嬉しいこと言ってくれるじゃない。家主からしたらたまったもんじゃないだろうけど」  未海はちびちびとビールをすするようにして飲む。千絵はその姿をもどかしそうに見ていたが、ついに痺れを切らして「酒はやめときなよ。ちょっと前まで飲んでたブラックコーヒーだって、それだって、すきで飲み始めたわけじゃないでしょ」と言うと部屋へと戻っていき、三分ほどしてベランダへ戻ってきた。その手には、湯気が立ったマグカップが一つ。 「ホットミルク。これ飲んだら寝なさい」  未海にマグカップを渡し、代わりに半分以上残っている缶ビールを奪って一気に飲み干してから、千絵は「沁みるわぁ」と笑った。未海もホットミルクを飲み、五臓六腑に染み渡る感覚を味わう。五臓には肺も含まれているため、本当に沁み入ってしまっては唐突な死に繋がってしまうのだが、未海の身体に沁み込んでいく温もりはとにかく優しかった。  やっぱり、翔なんかより千絵さんがすきだなぁ、と未海は思った。千絵さんのような人がすき、ではなく、千絵さんがすきだ。  人とは何だろう、と未海はいつも疑問に思っていた。彼女は『個人』と『人』という言葉を明確に使い分ける。たとえば『人』とは、合コンに欠員が出て「頼むよ。どうしても一人必要なんだ」というときに使われる、単位としての人間のことで、それが未海である必要はない。そこにはムードメーカーが必要であったり、自分よりも外見に華がない者が必要などの条件はあるかもしれない。けれどそれも『個人』ではないのだ。私は千絵さんがすきだ。これが『個人』を求めるということだ。そして未海は、私も誰かに『個人』として見てもらいたいのだ、と自覚した。代替不可能な存在として、あなたでないといけないという絶対的な指針を自分の中に見つけてほしいのだと。 「千絵さん、千絵さんって誰にでもこうやって優しくするんですか」 「ちょっと。傷心だからって私に依存されても困るよ」 「はぐらかさないで。そんなんじゃないから。人間愛として答えてほしい」  未海のニュアンスだけで放った言葉を、千絵は何となく茶化せないものとして受け止めた。そして、求められているあまりにもわかりやすい言葉の輪郭を撫でながら、さてどうしたものかなと思案する。 「私は、あんたの居場所になってあげられるような存在じゃないんだよなぁ。でも、あんたのことはすきだよ。あんたといるときに流れる時間は、心地いい」  千絵は結局、未海の頭を何度かぽんぽんと撫でた。その中途半端なやさしさの正体を未海は知っていた。この手は、掴むことを放棄した手だ。未海が今、翔に向けることができる程度の手の意味と同じもの。力を入れることができない項垂れた手の行先が、ここしかないのだ。 「私はあんたを、傍においてはやれない。でも不安になったら手を伸ばしておいで。気まぐれに、手をとったり、突き放したりするかもしれないけど。ずっとつるんでてあげるからさ」 「言いましたね。約束ですよ、というか、契約ですよ」 「なんで言い直したの、怖いよそれ」  私の気分次第です、と書かれた契約書を想像して、二人は噴き出した。そんな曖昧な約束にサインをさせて大事に取っておくなんて馬鹿みたいだ。けれども、それに縋ってしまう自分もなんだかおかしかった。本来、未海が縋り付くべき男は、いつの間にかベッドで寝静まっていた。  半同棲のような形をとっていたとはいえ、未海は連泊が楽になるほどの私物しか置いていなかったため、引っ越し作業などは特になく、あっさりと彼女は翔の部屋を出ていった。キャリーバッグを引きながら、千絵の部屋の前で未海は立ち止まる。物言わぬ鼠色の扉がそこにはある。別に、引き留めてほしいわけではない。十分すぎる譲歩を昨日もらったのだ。この人は、私から離れない。なぜなら恋愛関係に陥る間柄ではないからだ。  私がどれだけ甘えをぶつけたとしても、超えてしまう一線が二人にはない。未海が彼女と結んだのは悪魔の契約だ。どれだけ肌を重ねても、すり寄っても、彼女なら平気なのだ。翔や世間の男共のようにその先の展開を見据えて紡がれる時間というものが、ない。それが何よりも良かった。二人はもう、これ以上進むべき道がないどん詰まりにいるのだ。  未海のスマホに通知が一件入ってくる。 「本当に、やり直せないのかな、俺たち」  うるせぇばーか、と入力し送信、返事が来る前にブロック、連絡先一覧から削除までを完了させる。部屋は隅々まで掃除をしたのだ。未練など、塵ほども残してきてはいない。  さようなら、は、さようならば、が変化した言葉だとふと未海は思い出した。まさに、あなたがそのようにするのならば、さようならだ、と未海は思った。
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