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未来永劫
『最後に一度だけ』
夫の願いを聞き入れて寝室のベッドに横になった。もう何年も別々に休んでいたのである意味初めてのような、若い頃に戻ったような気持ちになる。しかし結婚生活を十年以上重ねてきた体は互いに確かに老いていて、新婚当初に戻ったとはとても言えない。
夫の指がおずおずと伸びてきて私のワンピースの胸元を探る。そっと背へ手が回される。そういえばこの人はいちいち聞いてくる人だった。
「キスしてもいい?」
「触れてもいい?」
「抱いていい?」
そんないじらしい様子が好ましく、受け入れてきたのだけれど。私が全てを決定しなければならないことが ー私に責任を全て押しつける夫がー 嫌になってしまった
無言で受け入れて、相手が果てて、終わる。
夫の肩越しに天井を見つめ、じんわりインクがひろがったような模様に、ふと幼い頃の息子が言っていたことを思い出す。
『天井のあのもよう。こわいの。こわいよう』
指差していたのはあの模様だろう。
ただの染みなのに。
「ただの染みなのにね」
私の上から離れ、夫が体を返して天井を見てぽそりと呟く。
「そうね」
まだ仲の良い夫婦だった頃を、恐らく夫も思い出しているのだろう。幸せな記憶であるならそのままレースにでも包んで後生大事にすればいい。私には不要だけれど。
「あの時は、幸一郎が怖いって叫ぶから寝ずに抱っこしたんだよね。腰が痛かった」
「......」
違うでしょう。あの時朝まで抱っこしていたのは私。
夫の記憶は夫に都合よく上書きされている。
「僕たちどこからおかしくなっちゃったんだろう」
『僕たち』
私は口の中で反芻する。
ぞわりと寒気がして、今まさに裸で二人、ベッドにいることがおかしいと思いつく。
体を起こし下着を探す。そろりとベッドからおりて夫の視線から逃れる場所で衣服を身につけた。ワンピースの背に手間どっていると真後ろから声がした。
「僕が着せてあげる。...着なくてもいいんだけどね」
振り向けない。きっと目が笑っていない。
こわい。
「ああ、ファスナーが生地を...」
夫がどこか台本を読んでいるような白々しさで呟く。
「もういいから!」
夫の手を振りほどこうとして払った右手を強い力で掴まれた。はっとして振り向くと口元に笑みを浮かべた夫と目が合う。その目は少しも笑っていなかった。
私は首元に強い圧を感じ、そのまま目の前が真っ暗になった。
***
コホッ
自分の咳で目が覚めた。
私はベッドに横になっていた。ワンピースを身に着けて。首を動かし周りを確認する。夫がいない?いや、それより何が起こったのか?
「目が覚めた?急に気を失うから驚いたよ。君は本当に自分勝手だね」
コン、とノックが聞こえ、夫が部屋に入ってきた。
スリッパの音。
ドアの開閉の音。
何か、おかしい。
何が。
「君が危ないことをしないように僕がやっぱり守ってあげるよ。いいだろ?」
ベッドで体を起こしたが私の体に添うように夫がベッドにあがってくる。
ミシリとベッドが音をたてた。
***
寝室の鏡台の前に、逝ってしまった幸一郎の写真がおいてある。まだ16だった。不運な事故だった。悲しくて泣いた。もう溶けてしまうかと思うほど泣いた。けれど息子を失って私は夫と別れる決意をかためた。その離婚届も写真の前に置いてー。
無くなっている。
「離婚届は?」
「ん?なんのこと?君はちょっと疲れているんじゃないかな?突然気を失ってしまうしー」
「...」
いつものように私に責任を押しつける。
夫が迫ってきて私はそのままベッドに押さえつけられた。
嫌でも天井が目に入る。
天井に、染みが無かった。
確かにあったはずなのに。
***
ここがどこかはわからない。
でも幸一郎を育てた家ではない。
私は確信していた。
青い顔をしているであろう私に夫がニコニコ笑いかける。
「ここでね、これからも二人仲良く生きていこうね。
いいだろ?
僕たちは夫婦だろ?
未来永劫に。
嬉しいだろ?
君が家を出るなんて言うから。
一緒に前の家を出てあげたんだよ。
新しく家を借りたんだ。
でもそっくりそのまま家具も同じさ。
君が使いやすいようにね。
君のためにね。
ほら、今日が。
僕たちの新生活の始まりだよ」
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