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真面目とは
土曜日、乙葉を自宅へ誘ってみた。
若い男性の家に来るのは、抵抗があるかも知れないと思ったが彼女はまったくそんな素振りもなかった。
「おじゃまして良いんですか。
私も、聞いてみたいことがあったんです」
事前にコーヒー豆を買い、朝ケーキを買ってリビングで待っていた。
チャイムが鳴ると、玄関に行こうとしたが人影が庭に回ってきた。
「こっちかな、と思って」
眩しい笑顔で乙葉が窓から上がり込んでくる。
今日も陽射しがポカポカと窓際を照らしていた。
彼女がいるところだけ、時空が歪んでいるのかもしれない。
窓が水飴のように柔らかく、ダイニングテーブルの角が丸く変形して白さを増した。
「どうぞ。
殺風景な部屋ですけど」
慣れた手つきでコーヒー豆を挽き、アルカリイオン水でドリップする。
部屋を見まわしてから、手元に薦められたジャンク:ジャーナルを捲っている。
コーヒーカップをソーサーに乗せると、カチャリと高い音が響いた。
独りのときには気になった、シンクを打つ水の音が今日はまるで意識に入ってこない。
ケーキと一緒にテーブルに置くと、心地よいコーヒーの香りと甘いケーキが心をさらに緩めた。
「ありがとう。
すみませんね。
私もクッキー持ってきたのでどうぞ」
落ち着いたベージュの紙包みを開いて、つまむように促した。
2人とも、口数が多い方ではない。
テーブルのお菓子とコーヒーの味を楽しみながら、普段の生活を少しずつ話していた。
「僕は、いつも同じ仕事をしていて虚しくなることがあるよ」
心の奥底にしまい込んだ言葉を、思わず口にした。
彼女は庭の陽射しに目を細めながら、受け流すように軽やかな仕草でコーヒーを口に運ぶ。
「私はチラシ配りなんてやってるから、真面目とは程遠いかな」
一郎は、彼女の言葉にハッとした。
「いま、真面目って」
乙葉はびっくりした顔をする。
「高校生のとき、真面目に勉強しなかったからさ」
「ああ。
そういう意味か」
眉間に皺をよせ、口の下で人差し指を曲げて当てる。
一郎が深く考え込むときのポーズである。
しばらく沈黙が流れた。
足元が、少し冷えてきた気がした。
コーヒーを飲みほすと、天井を斜めに見上げ小さく唸る。
茶箪笥には、きれいなカップソーサーセットや大小のお皿、コップなどが並ぶ。
男の独り暮らしの割に、きちんと食器をそろえ来客にも備えている。
「一郎さんは、仕事を一生懸命頑張ってるんでしょうね」
「なぜ、そう思うの」
「考えるポーズが、真面目そのものだからよ」
一郎は、小さく頭を振った。
「そうじゃないんだ。
真面目って何か、最近憑りつかれていて」
苦し気な表情を下へ向け、頭を抱えた。
ジワリと熱が、手のひらから首筋へと伝わってくる。
乙葉の呼吸が、小刻みに揺れている。
秋は、こんなにも静かなものだろうか。
目に映るのは、テーブルの白さだけだった。
乙葉が、不意に立ち上がって庭を見た。
「ねえ。
一郎さん。
真面目って何か、来週までの宿題にしようよ」
一郎は乙葉を見上げた。
頭の熱が、空気に少し冷やされた。
「そうか。
それはいいね。
じゃあ、来週までにエッセイにまとめよう」
「それを、ジャンク・ジャーナルへ」
それだけ約束すると、乙葉は出ていった。
残された一郎は、思った。
真面目ですか、というくだりについて話していなかった。
彼女は知っていたのだろうか。
ふわりと肩が軽くなっていた。
早速パソコンに向かい、ワープロを打ち始める。
ネタは、自分の日常だった。
自分は真面目なのか。
宿題は重く、そして楽しかった。
了
この物語はフィクションです
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