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第二章【どうにも忙しい】波浪
昼食を食べ終えた後、私と朔馬はワイシャツと袴姿になってネノシマへ向かった。 雲宿の妖将官は大抵この格好をしているらしいので、目立たぬように毎度そうしているのである。
ネノシマへいく方法は、何度経験しても非現実的である。
朔馬が虚空に桂馬の陣を書くと、そこには真っ白な空間が現れる。
朔馬は役職特権である桂馬の陣の一つを、ネノシマの辰巳の滝に配置している。そのため朔馬は日本にいても、ネノシマのどこにいても、辰巳の滝までの移動は一瞬である。
私は朔馬に手を引いてもらい、白い空間へと足を踏み入れた。
数歩も歩かぬうちに、そこはもう辰巳の滝であった。
辰巳の滝は気性の荒い水神がいるらしいが、まだ一度も出会ったことがない。
もっと滝に近づいて、その様子を見てみたい気持ちもある。しかし水神を刺激してしまった場合、なんの責任も負えないのでその好奇心は抑えている。
私が辰巳の滝を見ている間、朔馬は木陰に隠してある瑠璃丸の様子を見ていた。
瑠璃丸は呪いをのせたキジであったが、その呪いはすでに解かれている。瑠璃丸は現在、飼い主である巣守結高の元へと返せる日を待っている状態である。
「瑠璃丸は問題なさそうだな」
朔馬はそういった後で、なにかに気付いたように足を止めた。
「なにかあった?」
「わかりやすく結界が張ってある。たぶんこれは、銀幽のものかな」
「誰の結界か分かるんだ?」
「本来わからないけど、これは特徴的だから。それに銀幽は、俺が頻繁に辰巳の滝に来ていることを知ってるからね」
朔馬が指した先には、私でも視認できる蜘蛛の巣のようなものが張り巡らされていた。
「結界というより、鳴子に近いかな」
「鳴子?」
「引っかかると、カラカラ音が鳴る仕掛けのこと」
私は「ああ」と納得した。
「なんの意味があるんだろう」
朔馬は独り言のようにいった。
「さっき庁舎で調べ物をした時には、この結界はなかったってこと?」
「うん。その時はなかった、はず」
朔馬は思い出すようにいった。
「なんの意味があるのかはわからないけど、無視はしない方がいいのかな。少し寄り道になるけど銀幽のところに寄ってみてもいかな」
「いいよ」
私がいうと、朔馬は指先でその結界に触れた。すると張り巡らされていた糸は、はらはらと消えていった。
「今のうちに、顔は隠しておこう」
朔馬は以前のように、私に蔵面をつけてくれた。顔を物理的に隠されても、視界はそのままである。
朔馬自身が蔵面をつけた直後「朔馬だろ」と艶っぽい声がした。
「朔馬と、あの夜の子だね」
瀬戸銀幽、その人がいた。
銀幽はいつもそうしているように、両目を閉じたままである。朔馬いわく銀幽は目が良すぎるので、閉じていることが常らしい。銀幽は当然のように、蔵面をつけている私のことも覚えていたらしい。
「ここにあった結界は銀幽のものだろ。なにか用事でもあったのか」
「ちょいと話があってね。私の部屋まで来ておくれよ。もちろん、その子も一緒に」
朔馬は「どうしようかな」という感じで私を見た。
「ついさっき、庁舎の書庫に入ったろ。痕跡を消すのが甘かったから、完全に消しておいてあげたよ」
「どうせ銀幽しか気付かない程度の痕跡だろ」
朔馬は呆れながらいった。
「まあ、そうなんだけどね」
銀幽はくつくつと笑った。
「それを恩に着せたいってわけでもないんだけどね。頼みごとがあるのさ。話だけでも聞いておくれよ。話を聞いてくれたら今日一日、私の駕籠を貸してあげるよ。なにか用事があって、ネノシマに戻ってきたんだろ」
朔馬は迷いつつも「駕籠……」と小さくいった。
おそらく移動手段の一つなのだろう。
「話を聞くだけでいいなら」
朔馬がいうと、銀幽は満足そうに微笑んだ。
銀幽が虚空に陣を書くと、真っ白な空間が現れた。
桂馬の陣と同じで、銀幽も銀将の特権があるのだろう。
それから銀幽は、私たちの手を静かに引いた。
足を踏み出せば、そこはもう銀幽の執務室であった。
◇
銀幽に促され、私たちは以前と同じように応接セットのソファーに座った。
「で、頼みごとの内容は?」
和紙の人形が私たちにお茶を淹れてくれる間、朔馬はいった。
「手短に話すと、葦原遊郭の面倒事なんだよ。馴染みの与兵に相談されてね」
「遊郭の面倒事なら、俺が銀幽以上に役に立てるとは思わないけど」
「人間相手ならそうかも知れないね。でも、今回はちょいと話が違うんだよ。どうにも、遊郭の中に害妖がいるみたいなんだよ」
「そんな場所に害妖がいるなら、すぐに誰かが対処するだろ」
朔馬は不思議そうにいった。
害妖とは、害獣や害鳥と同じで、人間に害があるとみなされた妖怪である。つまり人の多い場所にクマやイノシシのような、そんな感じの生き物が出没するという話なのだろう。
「被害があるってだけで、害妖自体は見つけられてないんだよ。目撃者も今のところいなくてね」
銀幽は湯気の立つお茶に口をつけた。
「どんな被害なんだ」
「客と遊女が眠っている間に、血が抜かれているのさ。起きると布団に少量の血がついていて、本人たちはひどい貧血で、すぐには立てなかったって話だよ。布団に残された血と、出ていった血の量がまったく合わないから、血を吸われたんだろうってことなんだけどね。もう五件も、そんなことが起きてるのさ」
「それは、妖怪の仕業だと断定していいのか」
「九割方、妖怪の仕業だと思うよ。被害者には、うっすら噛まれた痕があってね。そこには、本当に微かに妖怪の毒があったんだよ。私が被害者を診れたのは、最初の一件だけなんだけどね」
「銀幽が直接、被害者に対応したのか。役職者が現場にいくほどの事件とは思えないけど」
朔馬は意外そうにいった。
「馴染みの与兵に相談されたっていったろ。最初の被害者は、その与兵なんだよ」
与兵という言葉に聞き覚えはなかったが、おそらくそういう役職があるのだろう。
「客商売において、評判ってのはとても大事なものなんだよ。この見世には血を吸う妖怪が出るらしい。なんて噂が立ったら、その見世はあっという間に廃れちまうよ。だから私が直接、現場にいったのさ。それから四件、同様の事件が起きたって話なんだよ。同じ見世でね」
「そうだとしても、部下に頼めただろ」
朔馬がいうと銀幽は「ふふ」と、艶っぽく笑った。
「葦原ってのは、雲宿に認められた遊郭だとは知ってるだろ。葦原には、雲宿の者も多く通ってるわけさ。もちろん私の部下たちもね。でも誰が遊郭に通っているか、完全に把握しているわけじゃないんだよ。どうでもいいことだしね」
銀幽はお茶を口にした。
「でもこの事件は、遊郭に通う者には話さない方がいいと思ったのさ。守秘義務はあれど、まだ事件として上に報告してない事件だしね。睦言でそれが漏れた日には、遊女の口に戸は立てられないだろうね。遊郭に通っていない部下に今回の件を頼めばいいんだけど、いかんせんそんな者を見つけるのが面倒でね」
「女の人なら遊郭には通わないんじゃないか」
「そんなこともないよ。女も遊郭に通うし、遊女と同衾もするよ。実際に九郎兵衛番所には、女性客用の大門切手があるんだよ。大門切手ってのは、まあ通行証みたいなものだね。遊女が逃げちまわないように、大門から出ようとする女は、大門切手を確認されるんだよ」
銀幽はそういいながら、書類を手にした。
「葦原遊郭は私の管轄範囲だから、私自身が動いてもいいんだけどね。今は、どうにも忙しいんだよ。被害があっても死者はいないし、害妖が遊郭にいると上に報告するのは早計な気もしてね」
銀幽は言い終えると、手に取った書類をふわりと宙に浮かせた。
するとその書類は意志を持ったように、朔馬の前にふわふわとやってきた。
「この事件の報告書だよ。いつ上に出すとも知れないけどね」
朔馬はそれを受け取ると、書類に目を落とした。
「遊郭で遊べる年齢でもないし、確実に遊郭に通っていない者なんて朔馬くらいしか思いつかなくてね。この件に協力してくれたら、謝礼は弾むよ」
朔馬は書類に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「事件は同じ見世だけど、同じ部屋ではないんだな」
「そうなんだよ。だから、どこぞの部屋だけ閉じればいいってわけでもないんだよ」
「見世の中に妖怪が潜んでいる可能性と、妖怪を呼び寄せてしまうなにかがある可能性か。実際にどっちの可能性が高いと思ってるんだ」
朔馬は書類を見つめたままいった。
「圧倒的に前者だね」
「現場にいった銀幽がそういうなら、そうなんだろうな。でも銀幽が見つけられないのが不思議だな」
「私の目も万能ってわけじゃないからね。気配が薄く、なにかに潜んでいる妖怪を見つけるのは難しい。しかも、私がその見世。河田屋にいったのは、日が高い時間だったからね」
妖怪の大半は夜行性である。
朔馬は「なるほどね」と、小さくいった。
「次にこの事件が起きるとしたら、おそらく明日の夜。でもさっきもいったように、私も忙しくてね。決定している仕事を蹴ってまで、起こるかもしれない事件の現場に、一晩中張り付いてられないのさ」
「なぜ明日だと思うんだ」
「そこにも書いたように、被害があるのはおよそニ週間に一度でね。明日がちょうどその日なんだよ。妖怪にも体内周期みたいなもんがあるから、まあ明日だろうね」
「最初の被害者は、九郎兵衛番所の与兵。浮真船人か」
朔馬は書類を見つめたままいった。
「九郎兵衛番所ってのは、遊郭の大門横にある番所だよ。九郎兵衛番所に勤務している者なら、嫌でも遊郭のことは詳しくなる。私に直接相談してきたのは、いい判断だった。この事件を公にしちまえば、贔屓の見世に悪評が立つことは避けられないだろうからね」
銀幽はそういうと、再びお茶に口をつけた。
「解決を望んではいるけど、高望みはしないよ。ただネノシマに来たついでに、ちょいと様子を見てきて欲しいのさ。現場を見て、朔馬の印象を聞いてみたいんだよ」
朔馬は私を見た後で、銀幽に目を向けた。
「少しだけ、様子を見るくらいならできると思う。でもその場合、現場にはこの子と向かう」
銀幽は「なるほどねぇ」と、なにかを考えているようだった。
「それが無理なら、この話はナシだ」
朔馬はきっぱりいった。
「無理って話でもないさ。大門を二人が通れるように手配しておくよ」
銀幽はそういうと、机上でさらさらと何かを書いた。
それから銀幽は立ち上がり、桐箪笥からとても薄い羽織りを出した。その羽織りは向こう側がうっすらと透けるほどには薄いものである。
「二人には、この羽織りが見えるだろ」
銀幽はいった。
その口ぶりだと、この羽織りが見えない者もいるのだろう。
「これはね、妖植物で編んでもらった羽織りなんだよ」
銀幽はそういうと、羽織りに指を這わせてなにかを書いた。
「ちょいと、ここに息を吹きかけておくれ」
銀幽は羽織りの襟首のあたりを朔馬に向けた。朔馬は銀幽にいわれた通り、そこにふぅと息をかけた。さらに銀幽は、別の羽織りを私の前に差し出したので、私もそれにならった。
それが済むと銀幽は右手の人差し指と中指を立てて、羽織りに向かって短く詠唱した。
「これを二人にあげるよ。好きに使いな」
銀幽はその羽織りを私たちの肩に掛けてくれた。
「それを身につけている間は、周囲には式神として認識されるはずだよ。目がいい者は、私の式神だと認識するかも知れない」
「こんなものをもらっても、なんの進展もないかも知れないけど」
銀幽は「わかってるよ」と微笑んだ。
「私の話はこれで終わりだよ。聞いてくれてありがとう」
銀幽がいうと、朔馬の手元にあった書類は静かに燃えてなくなった。
「約束通り、今日一日私の駕籠を貸してあげるよ」
銀幽は朔馬に御札のようなものを渡した。
「駕籠って、使役してる妖怪のことか」
朔馬は御札を見つめていった。
「移動に特化した妖怪だからね、駕籠と説明した方が早いんだよ」
「この妖怪、俺にも従順なのか」
「その御札があれば、朔馬にも従順だよ。しかし朔馬は、今も妖怪を使役してないのかい。面倒が多いだろ」
銀幽は呆れたようにいった。
「不便ってこともないよ。妖怪と関係性を作る方が、よほど面倒な気がするけど」
「そういう考え方もあるんだろうけどね」
銀幽はさらになにかいいたそうであったが、それ以上なにもいわなかった。
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