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第四章【関係は良好】浮真船人
「桂城朔馬だろ」
大衆から離れると、船人はいった。
朔馬は船人の顔をじっと見つめ返した。
「浮真船人、か」
朔馬の口から自分の名が出たので、船人は驚いた。
「なぜ、俺の名前を知ってるんだ」
「ずっと以前、道場に試合稽古にきただろ」
朔馬は海方道場に所属していたことは周知である。
海方道場は多くの妖将官を排出している道場で、その指導が厳しいことでも有名であった。
朔馬がいう通り、船人は何度かそこに試合稽古にいったことがある。そこでやけに厳しく指導されている子どもがいたことを、船人はぼんやりと思い出していた。
その子どもは何度叩きつけられても、何度暴言を吐かれても、じっと耐えていた。自分よりも何倍も大きな大人を前に、うめき声一つ上げることなく幾度も立ち上がった。それは実に奇妙で、そして恐ろしい光景に思えた。厳しい稽古には慣れているが、その姿はあまりに痛々しくて健気だった。
他の道場のやり方に口を出すことは、言語道断である。しかし船人は思わず「今日はもういいのでは?」と、割って入ってしまった。
船人が子どもの間に入ると、指導者の殺気立っていた目はみるみるうちに正気に戻っていくようだった。その目はまるで何かに取り憑かれていたような、そんな目であった。それから指導者は長く息を吐くと「休憩だ」と短くいって、その場を去った。
指導者が去った後、子どもは船人に深々と頭を下げた。
正面から見据えると、儚げでなんとも美しい子どもだった。
その日の帰り、あの子どもは月訓神に呪われた子どもであり、その呪いのせいで声を奪われているのだと聞かされた。
最年少で妖将官になった桂城朔馬は、月訓神に呪われている。
それは有名な話であった。
しかしどうしてか、あの時の子どもと朔馬が同一人物であると結びつけたことはなかった。
そもそも海方道場での出来事を、船人はこの瞬間まで忘れていたのだった。
「たしかに何度かいったことがある。しかし、よく覚えてたな」
船人は感心するようにいった。
「覚えてるよ。優しくしてくれたから」
朔馬の言葉があまりにまっすぐで、船人は小さく混乱した。
桂城朔馬なる人物は、人の名を覚えぬ冷徹な人間に違いないと思い込んでいたためである。そう思い込んでいた理由は単純で「朔馬は与えられた仕事を淡々とこなし、仲間のことはあまり気にかけない」と、人づてに聞いたからだった。
たったそれだけのことが、強く印象に残っていたのだった。逆にいえば、そのくらいのことしか桂城朔馬のことを知らないのだった。
「船人はなんで、俺がわかったんだ。顔を隠してるのに」
朔馬はそういった後で「俺の顔を知ってる者は、少ないだろうけど」と続けた。
「歩き方だよ。桂馬の任命式に、九郎兵衛番所の代表として出席していたんだ。それを覚えてた」
九郎兵衛番所の代表といえど、その日がたまたま休みだった船人に白羽の矢が立っただけのことである。
「任命式なんて、二年も前の話だろ。よく覚えてるな」
もう一人の妖将官も「うんうん」と同意した。こんなことを褒められると思っていなかったので、船人はなんだか気恥ずかしかった。
「ただの職業病だ。番所では常に、お尋ね人が紛れ込んでいないか見張ってるから」
「大変なんだな」
「妖将官の方がずっと大変だろ」
船人はそういった後で、敬語を省略していたことを朔馬に謝罪した。
「別にいいよ。顔馴染みだし」
朔馬はあっさりといった。
ずっと以前に一度だけ会った者を「顔馴染み」といってくれたのは、朔馬の優しさなのか、本当にそう思っているのかは船人にはわからなかった。
「それより、連れ出してくれてありがとう。助かった」
もう一人も「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いや、別にいいんだ。しかし人違いだと断ればよかったのに、なんだってあんな余興に付き合ったんだ」
船人は朔馬の厚意に甘え、敬語は使わないことにした。
「人違いだといって、身元を確かめられるのも面倒だと思って」
妖将官の身元を確かめるような武官がいるとは思えなかったが、朔馬はそう思ったらしい。朔馬は常に前線で戦っている印象があるので、武官と接する機会も少ないのかも知れなかった。
「今は、秘密裏に動いているってことか」
「うん。だから船人も、俺がここにいたことは忘れてほしい」
「承知した」
よくあることである。
「しかし武官ってのは俺のように、歩き方で人間を判断する者は多少はいるぞ。その蔵面だけでは、身元を隠せるとは思わない方がいいかもな」
朔馬ともう一人は、顔を見合わせた。
「この辺は、益妖や、式神が歩いていても不思議には思われないかな」
朔馬はいった。
「それほど妙には思われないと思う。妖怪に化ける術でもあるのか」
朔馬は「まあ」と曖昧にいった。
使える妖術というのは、人によって大きく偏りがあるらしい。将学院の四年間は妖術の基礎を学ぶわけであるが、朔馬はそこを二年で卒業している。そんな者がどんな妖術を使うのかは、まったくの未知である。
「妖怪に化けても問題ないとは思うが、この時間だと人間につれられていないと目立つかも知れない。この時間なら町駕籠の方が目立たないと思う。それなら歩き方で特定されることもないし、なんなら手配しようか」
船人はいった。
「いや、大丈夫。船人につれて歩いてもらうことにする」
朔馬はけろりといった。
「もしかして銀将に、なにか頼まれたか」
船人がいうと、朔馬はうなずいた。
「今回は桂城朔馬としてではなく、銀幽の式神として葦原遊郭にきた」
◆
朔馬は遊郭に出入りしていないことを理由に、銀幽に今回の件を相談されたらしかった。
遊郭に無関係な者を送り込んでもらえるのは、船人にとってもありがたいことである。しかしこの件を役職者である朔馬に任せるには、いささか大袈裟のようにも思われた。
「まさか役職者が来るとは思ってなかったな。遊郭に足を運ばない妖将官も、いるとは思うが」
朔馬たちはすでに式神の姿になっており、船人の横を歩いている。
もう一人の妖将官は「ハロ」と名乗った。朔馬はハロについても、口外したり、詮索するようなことはしないで欲しいと船人に告げた。その言葉だけは妙に事務的で、朔馬が役職者であることを思い出させるものであった。
「それを探すのが面倒なんだっていってたよ」
それもそうである。
遊郭は昼見世の時間で、人はまばらである。張見世に出ている遊女らも、どこか退屈そうである。
河田屋の楼主に声を掛けると、楼主は深々と頭を下げた。この事件で一番困っているのは、おそらくこの楼主である。
遊女が被害に遭うことにも困っているとは思うが、見世の悪評が立つことは絶対に避けたいはずである。
河田屋の楼主は弟の香円に絵を依頼してくれることもあり、船人は恩のようなものを感じている。そのためにもこの事件は秘密裏に、且つ速やかに解決したいと思っている。
「被害が出た部屋を、事件が起きた順に見ていきたい」
船人は朔馬に従い、被害のあった五つの部屋を案内した。幸いにも今は、どの部屋も空きだったのでそれはすんなりと終わった。被害があったのは三階の部屋四つと、二階の部屋一つである。
「起きた時に妙にだるくてな。布団には血がついてるし、驚いたよ」
朔馬たちに部屋を見せ終えると、船人はいった。
「どこからの出血だったんだ?」
「俺の場合は腕だな。他の者はふくらはぎだったり、統一性はない」
船人は傷があった場所を、朔馬たちに見せた。しかしそこには、すでになにも残っていなかった。
「噛まれたような、そんな痕だった」
「痛みはなかったんだろ」
「なかった。あったとしても、起きるほどの痛みではなかったんだろうな。人や獣の仕業なら、さすがに起きるとは思うんだが」
朔馬は「そうだよな」と短くいうと、しばし沈黙した。
そして「ほかの見世も見てみたい」と、顔を上げた。
「ほかの見世か。いいけど、どうしてだ」
「河田屋でしか事件が起きてないということは、河田屋になんらかの異変があると思うんだ。他の見世となにが違うのか、比べてみたい」
よその見世を知らない朔馬にしてみれば、当然の提案なのかも知れなかった。
さらには、船人が二体の式神をつれて河田屋に入ったと噂されるより、その辺の見世にも顔を出した方がいいように思えた。
船人が九郎兵衛番所の武官であることは、遊郭にいる者なら周知である。見回りだといえば、よその見世に入ることは容易である。
「わかった。案内する」
◇
「色んな見世があるんだな」
河田屋の他に七軒ほど見世を回ると、朔馬は感慨深そうにいった。
「見世にも格付けがあるからな。格が高い順に大見世、中見世、小見世だ。最下級は切見世といって、長屋みたいな場所で客をとる者もいる」
今回、切見世は無関係だと思われるため、そこを訪問することを船人は避けた。無関係と思う以上に、朔馬らに切見世はあまり見せたくなかったのである。
「河田屋は立派に見えたけど、大見世?」
「いや、河田屋は中見世だ」
朔馬は「中見世か」と小さく反芻した。
「河田屋に、なにかありそうだな」
朔馬はぽつりといった。
「なにかわかったのか」
「いや、なにもわからないけど。なにかありそうだと思った。この事件を解決するには、銀幽がいうように、明日河田屋を一晩見張るのが一番いいんだろうな」
朔馬はそういうと、ハロに視線を向けた。
「明日の夜、また来てみようかな。どうなるかは、わからないけど」
朔馬がいうと、ハロは「いいよ」と即答した。
「ハロは、なにか気になることはあった?」
朔馬が聞くと、ハロは船人をじっと見つめた。
役職者である朔馬と、対等に仕事ができる者は少ない。ましてやハロは、朔馬と同年程度の少女のようである。
しかし詮索するなといわれているので、船人は無理に思考を止めた。
「気になることがあったら、いってみてくれ」
船人は発言を促すように、ハロにいった。
「九割方、妖怪の仕業ということですけど、一緒に寝ていた女の人が、お客さんを攻撃した可能性はないんですか」
船人は閉口した。
ハロは遊女が客を襲ったのではないかと疑っているのである。その発想は、ハロが遊女たちと同性だからこそ出るものなのだろう。それは無意識に、客の男を嫌悪しているせいなのかも知れなかった。
「客を攻撃した後で、疑われないように自分の被害も装ったってこと?」
朔馬は確認するようにいった。
「そう。妖怪を飼っている人がいるとか、その可能性はないのかなと思って」
「なるほど。その可能性も、あるかも知れない」
朔馬はいった。
「たしかにその可能性もある。しかし遊女が益妖を飼っているとは考えにくい」
船人はいった。
「妖術を使えなくても、妖怪が懐くことはあるだろ」
朔馬は船人をみた。
「あるけど、それを楼主は許さない。それに、俺たちは君らのように妖将官じゃない。妖怪に懐かれたとしても、意思疎通を図れることは少ないし、ましてや命令に従わせることはできないと思う」
二人は「なるほど」と、船人の意見を飲み込んでくれた。
「あと、なんだ。なんというか……被害にあった五件とも、遊女との関係は良好だったとはいわせてくれ。その証拠に、被害にあった客は口が堅い」
自分自身が被害者であるせいか、その言葉はなかなか虚しいものであった。
◇
日が暮れる前に、二人は大門を後にした。
夜見世が始まる前に二人が去ったことに、船人は小さく安堵した。夜見世を十代半ばの二人に見せることに、若干抵抗があったためである。
たとえ明日一晩中遊郭にいるとしても、仕事以外ではなるべく遊郭に足を踏み入れて欲しくないと船人は思っている。
それは自分が遊女を買っている事実が後ろめたいのか、二人にこんな世界を見せたくない親心のようなものなのかはわからない。
こちらの世界を知らない者と出会う度に、この場所は異質なのだと気付かされる。
この異質な世界を護りたいと思う反面、こんな場所はなくなった方がいいのかも知れないとも思っている。
そんな船人をよそに、今宵も遊郭に灯がともる。
葦原大門の戸が開く。
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