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第六章【ひどく虚勢を張って】波浪
翌日の昼過ぎ、私と朔馬は再びネノシマの地を踏んでいた。
「これ、現場を見た報告書」
朔馬は銀幽に書類を渡した。
辰巳の滝に到着すると、前日と同じく銀幽の結界があった。それを解くと、銀幽はすぐに迎えに来てくれたのだった。妖怪は夜行性が多いので、妖将官は日が高い間はそれほど忙しくないらしい。
「ありがとう。しかし仕事が早いねぇ」
「うん。駕籠を貸してくれて、すごく助かったから」
朔馬はいった。
「そんな辺鄙な場所にいったのかい。まあ役に立てたならよかったよ。今日、ここに来てくれたってことは、遊郭の件に期待していいんだね」
「そうだね。でも今夜で解決できなかったら、俺はもうこの件には関与しない」
「わかった。それでも、助かるよ」
「代わりといってはなんだけど、もう一度あの駕籠を使わせて欲しい」
「また辺鄙な場所へいくのかい」
朔馬は「うん」と正直にいった。
「貸してやりたいけど、今は別の仕事を頼んでいるんだよ。だいぶ荒っぽいけど、別の駕籠なら貸してやれるよ。ただし、一人しか運べない。どうする?」
朔馬は「どうしようかな」と、私を見つめた。
「どうしても二人で動く必要があるのかい」
二人で動く必要があるかと問われると、身代わりの石さえ望石神に渡すことができれば問題はないようにも思われた。
「その必要がないなら、朔馬一人でいっておいでよ。その間この子は、ここにいてもらえばいいよ。私は今日中に提出しなきゃいけない公務文書が溜まってるから、しばらくここから離れないよ」
「俺とその子で、神様に頼みごとがあるんだ。二人揃ってないと失礼な気がする」
「相手が神様なら、人間と違って細かいことは気にはしないだろ。邪神ってわけでもないんだろ」
「そうだけど」
朔馬は決めかねているようだった。
ネノシマにいる間、朔馬と別行動を取るのが不安であるとか、そんな話を凪砂としたせいだろう。朔馬は「心配である」という顔を私に向けた。
しかし望石神のところへ二人揃っていくには、駕籠なしではなかなか骨が折れるように思われた。おそらく朔馬もそう思っている。
「なんだい。別にこの子になにもしないよ」
銀幽は呆れたように笑った。
「大丈夫だよ」
私がいうと、朔馬は覚悟を決めたらしく「わかった」といった。
「この子については、詮索もなにもしないでほしい。遊郭の件はしっかりやるから」
「わかったよ。さっさといっておいで。ほら」
銀幽は子どもをあやすような優しい声でそういうと、先日と似たような御札を朔馬に渡した。
「うん、ありがとう。じゃあ、ちょっといってくる」
私は「お願いします」と身代わりの石を渡した。
◇
朔馬が執務室を去ると、ゆるやかに静寂が訪れた。
「詮索はしないけど、名前も聞いちゃいけないのかい」
銀幽は両袖机に座り、書類に目を落としたままいった。私は前回と同じく、応接セットのソファーに座らせてもらっている。
「ハロです。ハロと呼んで下さい」
昨日、私は船人にハロと名乗ったのでそれに合わせた。
銀幽は「ハロね。わかった」と薄く笑った。
「お茶でも飲んで、ゆっくりしてなよ。大丈夫、毒なんて入っていないから」
私は「いただきます」といって、和紙の人形が淹れてくれたお茶に口をつけた。
「あの、私はなにもできない者なんですが。掃除とか、何かできることがあればいってください」
私がいうと、銀幽は口元を緩ませた。
「客人になにかさせるほど野暮じゃないよ。それになにもできない者は、なにもしないのが一番いいよ。座ってな」
銀幽はもっともなことをいった。
「でも、そうだね。無言でいられるのも息が詰まるから、話し相手になっておくれよ。詮索をしなければ、会話をするくらいはいいんだろ」
「問題ないと思います。でも、答えられない質問はあるかも知れません。ごめんなさい」
私自身は朔馬になにを禁止されたわけでもない。だからこそ、なにをどこまで話していいのかはわからないのだった。
「それなら、そっちが話題を振ってみてくれるかい。質問があれば、私はなんでも答えるよ」
――俺の母親と顔馴染みだったらしい
「えっと、朔馬のお母さんとは親しかったんですか」
咄嗟に質問してしまったが、朔馬のことを詮索しているようで嫌な質問をしてしまったなと少々後悔した。
「親しいという表現は、ちょっと違うかも知れないね。職場が同じでね。私が一方的に好いていたのさ」
朔馬の母も妖将官だったのだろうか。
しかしそれがネノシマでは周知だった場合、その質問は妙に思われるだろう。
私が言葉を選んでることが感じられたのか、銀幽は続けた。
「朔馬の母親と私は、同じ女郎屋で働いてたのさ。それが今回の河田屋なんだけどね。働いていたといっても彩月太夫がいた頃は、私はまだ禿だったよ」
彩月太夫というのが、おそらく朔馬の母親なのだろう。
朔馬の母が遊女だったことも、目の前にいる銀幽が遊女だったことも、すべてが予想外だったので私は馬鹿みたいに「そうだったんですね」としかいえなかった。
「彩月太夫は、それはもう美しくてね。そのお世話をできるのが、ずいぶん自慢だったよ」
銀幽は懐かしむようにいった。
「だから彩月太夫によく似た朔馬は、かわいくて仕方ないんだよ。まさか雲宿で、彩月太夫の忘れ形見と会えるとは思ってもみなかったよ」
銀幽の声は、後半になるにつれて熱を失っていくようだった。
「彩月太夫を身請けしたのは、大商人の跡継ぎでね。彩月太夫の子も、当たり前にその跡継ぎになると思っていたんだよ。しかしありきたりな言葉になるけど、人生なにが起こるかわからないね。私自身も、官吏になるなんて思ってなかったからね」
銀幽は書類に目を落としたままいった。
「この仕事も好きだけどね。たまに、あの女郎屋に戻りたくなるよ」
「え」
私は思わず声を漏らした。
銀幽はやはり目を閉じたままで、こちらを見たように感じられた。
「すみません。戻りたくなるものなのかなと思いまして」
私は正直にいった。
女郎屋で働く者たちを深くは知らないが、売られてきた者たちばかりなのだろうと、不本意に働いているのだろうと、そう思い込んでいたせいである。
「そうだね。官吏にでもならなきゃ、こんなことは思わなかったかも知れないね」
銀幽は艶っぽく笑った。
「遊女だった頃は、人間の夜の顔しか知らなかったわけだけど。今は官吏として、人間の表の顔ってのを知ってしまったせいかね。昼間はえらそうな口を叩くヤツが、夜はその口で遊女の乳を吸うわけさ。人を癒やす仕事に戻るのも悪くないと思う時があるんだよ」
銀幽は小さく息を吐いた。
「人間ってのは、虚勢を張って生きている者ばかりだからね」
銀幽は書類になにかを書き込みながら、独り言のようにいった。
「遊郭ってのは虚勢を張って生きる者にとっても、遊郭でしか生きられない者にとっても、必要な場所なんだよ」
銀幽のいいたいことは、きっと理解できる。しかし自分が遊郭で働く立場になった場合、そんな風に思えるかは疑問であった。
「茶請けに菓子をあげようか」
銀幽はそういうと、両袖机の引き出しを開けた。すると和紙の人形は、銀幽に近づいていった。銀幽はその人形に、黄色い鉱石のようなものを渡した。
「この前の夜もあげたっけね。今回は、どっちだと思う?」
前回会った夜、銀幽は琥珀糖とべっこう飴をくれた。そのどちらだと思うかを、私に問うているのである。
「琥珀糖」
私は即答して、和紙の人形から黄色い鉱石のような菓子を受け取った。
「おや、なんでそう思うんだい」
「だって。買って後悔するって仰ってたから」
私はそういって「いただきます」と、渡された菓子を口にした。
口に入れた瞬間、それが琥珀糖であることはすぐにわかった。そして私は以前そうしたように「べ」と舌を出した。
銀幽はそれを見て「ふふ」と嬉しそうに笑った。
◇
「おや? もう帰ってきたようだね」
朔馬が執務室を出てそれほど経っていないが、銀幽はそういうと両袖机から立ち上がろうとした。
「あ、開けます」
私の方が扉に近かったので、私はそういって立ち上がった。
「できるだけ大きく開けておくれ。開ける時、決して扉の正面に立ってはいけないよ」
理由はわからないが、私は銀幽の指示に従った。
私が扉を大きく開けた瞬間、朔馬が執務室に乱暴に投げ込まれた。
「えぇ……」
私は思わず声を漏らした。
朔馬は銀幽の座っている両袖机に激突する直前でなにかの術を使い、静かに着地した。
「ありがとう。もう閉めて大丈夫だよ」
銀幽がいったので、私は扉を閉めた。
「おかえり。早かったね」
銀幽は書類に目を落としたままいった。
朔馬と衝突するとは微塵も思っていなかったようである。
「おかげさまで移動が早く済んだからね。しかし本当に荒っぽい駕籠だったな。俺一人でいって正解だった」
朔馬はそういって服装を正した。
「帰りは駕籠じゃなくて、親鍵を使えばよかったじゃないか」
「庁舎の親鍵を使ったら、誰に見られるかわからないだろ。それに出向いた場所と、親鍵の使える鳥居はそれなりに距離があるんだよ」
朔馬はいった。
銀幽は納得したように「ああ」といった。
「庁舎の親鍵を使えないから、いつも鳴子を無視しないんだね」
「銀幽が辰巳の滝に迎えに来てくれると、歩く手間が省けるから」
朔馬は悪気なくいった。
「それじゃ遊郭にいくのも面倒だね。遊郭の近くまで、駕籠を手配してやるよ。遊郭内は、駕籠は使えないけどね」
「あの駕籠はもういいよ」
「さっきの駕籠じゃなくて、普通の人力の町駕籠だよ。私名義で手配してやるよ。式神の姿で乗り込みな」
銀幽はそういって、朔馬に紙切れを渡した。
「それなら助かる。ありがとう」
「ところで神様に頼みごとってのは、どうだった。問題なかったろ」
「うん、問題なかった。大丈夫だったよ」
朔馬は私の方を見ていった。
「さっきの報告書に目を通したけどね。今夜、一晩中河田屋の見張りをしてくれるんだね。ずいぶん気前がいいことをしてくれるじゃないか。夜に少し、見張りをしてくれる程度だと思っていたよ」
「銀幽に恩を売るのもいいと思って。それでも、解決できるとは限らないけど」
「一晩張ってくれるなら充分だよ。諸々の手配は河田屋と九郎兵衛番所にしておくから、よろしく頼むよ」
朔馬はうなずいた。
「明日の朝になれば、昨日の駕籠を一日貸してあげられるよ。どうする?」
明日も望石神のところへいく必要があったので、朔馬は迷いなく「貸して欲しい」といった。
銀幽の執務室を出る際に頭を下げると、銀幽はひらひらと手を振ってくれた。私も朔馬が扉を閉めるまで、銀幽に手を振った。
◆
銀幽の執務室を出た後、私たちは朔馬の執務室で一息ついた。
「望石神に身代わりの石を渡したのは、この時計で午後一時二十七分だった。午後一時半と覚えておけばいいかな」
朔馬はそういって携帯端末をみた。
「圏外だけど、時計は動いてるよね」
「ちゃんと動いてるはずだよ。補正はされないらしいけど」
私はいった。
「夜見世が始まるのは午後六時って話だから、その頃に遊郭にいけばいいか。それまで、ちょっと書類に目を通してようかな」
朔馬はそういって、執務室にある書簡箱のようなものを指した。そこには溢れんばかりの書類があった。
「すごい数だね」
「俺が日本に常駐ってことは、一部の者しか知らないから。報告書類や通達は、いつも通り届けられるんだ」
朔馬は書簡箱を両袖机に乗せた。
私はなにをして時間を潰そうかと考えながら、朔馬の執務室を見渡した。
「楽しいかはわからないけど、この部屋にある本ならなんでも読んでいいよ」
朔馬の執務室の両脇には本棚があり、そこにはびっしりと本が並べられている。
「私でも読めそうな本ある?」
私は本棚を見渡しながらいった。
「理解できるという意味では、妖術書かな。妖術の基本書だから」
妖術書。その内容を理解すると抜刀できるという書であることは知っている。凪砂はそれを読んで、数日で抜刀できるようになってしまったのだった。
「私も抜刀できるようになるかな」
「なるよ。でもハロは抜刀できなくていいよ」
朔馬はいった。そして「凪砂もそんな必要なかったんだけどね」と続けた。
それを受けて、凪砂に妖術書を渡したのは光凛であったことを思い出した。朔馬は凪砂に妖術書を読ませる気はなかったのだろう。
朔馬は凪砂や私に、強さみたいなものを求めていない。しかし私も凪砂も朔馬に守られたいとは、それほど思っていない。結果的に守られているとしても、いつでも守ってほしいとはきっと思っていない。
「妖術書、読んでみたい」
私がいうと、朔馬は「いいよ」といった。
そして両袖机から、一冊の和書を取り出した。
受け取ったその書をぱらぱらとめくると、すぐにそれに気が付いた。
「これ、朔馬の字だよね。凪砂にも、書き写したもの渡してたよね。それとは別物?」
「うん、別物だよ。何度も書き写してるから、俺の字で書かれた妖術書は何冊か持ってる」
朔馬はけろりといった。
「本当に、がんばったんだね」
私がしみじみいうと、朔馬はいつかのように微笑んだ。
◇
執務室に無機質な音が響いた。
「夜見世が始まる時間だ」
朔馬はそういって、携帯端末に触れた。
つまりは午後六時を告げる音だったらしい。
七月末の午後六時は、夜の気配を感じさせないほど明るい。その音が鳴らなければ、そんなに時間が経ったことには気付かなかったと思われる。
「全部に目を通せなかったから、写真を撮っておこうかな」
朔馬は携帯端末で書類を撮影し始めた。
私は妖術書から目を離して、その場で伸びをした。
妖術書の内容は「書いている内容はなんとなくわかるが、まだ理解はできない」という感じであった。しかし妖術書の内容を理解すれば、抜刀できるという事実を知っていると飽きることなく読み進めることができた。
何度かそれを見ているが、抜刀というのは実に不思議な現象である。
「そろそろ移動しようか」
朔馬は書類の撮影を終えるといった。
「うん、いこう」
私たちは銀幽にもらった羽織りを身に付け、執務室をあとにした。
町駕籠というのは基本的に市中では使用しないらしく、私たちは人通りの少ない場所で町駕籠を下りた。
しばらく歩くと、すぐに人の多い通りに出た。
日が落ち始めたせいか、町中であっても浮遊している妖怪の気配が濃くなっている。
しかしネノシマの者にとってはそれが通常のことらしく、妖怪を気にする者はいない。たまにふわりと寄ってくる妖怪を、虫を払うようにして人々は避けている。ネノシマの者にとってその辺にいる妖怪は、虫や、カエル程度の認識らしい。しかし虫やカエルに毒があるように、妖怪も無害というわけではないのだろう。
ほどなく私たちは、葦原遊郭の大門にたどり着いた。
そこは町中の灯りをかき集めたような、まばゆい光を放っていた。
大門の中は、他のどこよりも光り輝いていた。
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