第七章【歩幅】船人

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第七章【歩幅】船人

 午後六時。  葦原遊郭の夜見世が始まる。  大門が開くと、ぞろぞろと様々な人間が入ってくる。すでに目当ての遊女がいる者もいれば、張見世の前をうろつく者もいる。いつもの葦原遊郭の夜である。  夜見世が始まってしばらくすると、銀将から通達があった通り二体の式神が九郎兵衛番所を訪れた。  船人は予定通り、その式神をつれて河田屋へ向かった。 「昨日とは別の式神に見えるんだが。人間だよな。昨日と同じで」  船人は確かめるようにいった。昨日の二人であるとは思いつつも、そうでなかった場合を考えてあえて名前はいわなかった。  式神二体がうなずいたので、船人はほっとした。 「昨日とは別の式神に見えるのか。こっちが俺で、そっちがハロだよ」  式神であるところの朔馬はいった。 「今夜は一晩中、河田屋で張ってくれるって話だったな。河田屋にも銀将から連絡がいってると思うが、一応同行する。遊郭の中を式神二体が闊歩しているのは、ちょっとばかし不自然だからな」  朔馬は「ありがとう」といって、夜の遊郭を興味深そうに見つめた。 「俺もあと三十分で非番だ。今夜は河田屋にいくから、なにかあれば声を掛けてくれ」 「非番なら、わざわざ働かなくていいよ」  朔馬は船人の言葉の意を理解していないようだった。そしてそれはハロも同じよようである。 「河田屋にいくってのは、客として河田屋にいくってだけの話だ。なにも起こらなければ、そのまま遊んでるから気にするな」  朔馬とハロは「ああ」と微妙な反応をした。  妖将官とはいえ十五歳に、こんな話をするべきではなかったかも知れないと船人は反省した。しかしその後で、この二人は遊郭のことを深くは知らないのだろうと思い直した。 「大門は午後十時に閉じる。で、午前零時には店じまいだ。同衾する客は午前六時のお見送りまで、見世に残るがね」  船人がいうと、やはり二人はそれを知らなかったらしく「へぇ」と関心した。 「被害者が出るとすれば、午前零時から午前六時の間に河田屋にいる者ってことか」 「そうだな」 「今まで同じ客や、同じ遊女が被害にあったことはなかったよな」  朔馬はいった。 「そうだな。今のところすべて、別の部屋で被害が出てるからな。遊女ってのは、それぞれの座敷を持ってるんだ」 「じゃあ、船人は安全と考えて大丈夫か」  朔馬はいった。  その言葉を受けて、朔馬にとっては船人を含めた河田屋にいる者すべてが守るべき対象なのだと改めて思い知る。 ◇  妖将官試験を受け続けた七年間は、今は嘘のように遠い。しかしその七年はとても長かった。  試験を受け続けていた当時は、近しい者が合格する度に嫉妬や焦りが船人を支配した。しかし受験資格を失ってからは、武官になってからは、そんなことはなくなった。  妖将官になれる可能性があった頃の方が、よほど苦しかった。  蜜木が妖将官試験に合格する以前「妖術書のこの部分が、どうしても理解できない」と相談されたことがあった。  船人はすでに武官になっており、体術の稽古に付き合わされた時のことである。 「妖術書に関しては、俺に聞いても仕方ないだろ」  船人は失笑した。 「失敗した人からしか学べないこともあるんですよ」 「俺を踏み台にすることに躊躇がないねぇ」  船人は笑いながら、蜜木の指した妖術書に目を通した。  久しぶりに妖術書を読んでみると、その内容がすっと頭に入ってきた。必死に覚えようとしてきたことが、理解できるようになっていた。 そしてなにより妖術書の内容に、初めて興味を持てたように思えた。そもそも自分は、妖術に興味があったのだろうか。妖将官という花形の職業に憧れていただけではないだろうか。  試験に合格するため、という目的をなくした今、船人は改めて妖術という分野に興味が持てたのだった。  蜜木に妖術書を教えるためにも、船人は七年間読み続けた妖術書を再び読み返すことにした。  それから数ヶ月後、船人は抜刀した。  船人が二十二歳で抜刀したことは、武官の中でちょっとした話題になった。 そして船人が抜刀したことは、当時の上官が雲宿に報告した。  もしかしたら今からでも将学院に入学できるかも知れない。周りはそんな風にいった。  しかし二十歳を過ぎた者の入学を許可した場合、年齢制限は無意味になる。おそらく入学はできないだろうと船人は思っていた。  その数日後、雲宿から通達が届いた。  そこには、船人を特例として将学院へ入学させることはできないこと。そして今後、肢刀を使ってはならないこと。それらが書いてあった。  将学院に入学できぬということは、妖術を学ぶことはできないということである。だからこそ正しい肢刀の使い方を知らぬままそれを使ってはならないと、そういうことなのだった。  小さな落胆はあった。十代の半分以上を、妖将官に憧れて生きてきた。しかしそれは、すでに過ぎた夢である。そして船人はもう、聞き分けのない子どもではなかった。  船人はその通達に添えられた同意書に判を押した。  その同意書には、船人を与兵として扱うとの記載があった。 そのため船人は名ばかりの与兵となり、同時に武官五等となったのだった。 「妖怪ってのは、やはり恐ろしいんですよ」  蜜木が九郎兵衛番所に与兵として配属されてすぐの頃、彼はぽつりといった。 「妖怪ってのは、害獣と同じだと妖将官はいうんですけどね。僕にとっては全然同じじゃないんですよ。妖怪は同種でも個体差が激しいんです。目の前の妖怪にはどんな力があるのか、どれほどの攻撃範囲なのか、なにもわからないんです。わからないってことが、なにより恐ろしいんです」  蜜木が妖将官として前線に立ったのは、半年である。  その半年でどれほど壮絶な経験をしたのか、船人には想像することも難しかった。 「それを平然とやってのける妖将官ってのも、今では少し恐ろしい。あんなに憧れていたのに、不思議なもんです」  与兵となった者たちは、船人が考える以上に複雑な感情をぶら下げているのかも知れなかった。  その夢に手が届かなかった自分と、手が届いた後でそれを手放さざるを得なかった者、どちらが辛いなんて、誰にもわかりはしないのだった。 ◇ ――じゃあ、船人は安全か 「そうでなくても、朔馬が河田屋にいてくれるなら、俺は安全だよ」  船人がいうと、朔馬は小さく笑ったようだった。 「あれ」  朔馬はそういうと、大門を振り返った。 「どうした?」 「大門からこの樹木までの歩幅が、前回と半歩ほど違うなと思って」  そんなことをしていたとは思っていなかったので、船人は舌を巻いた。 「いつもそんなことしてるのか」  船人がいうと朔馬は「うん。船人はしないのか」と、こともなげにいった。 「少なくとも俺はしてなかったな」 「目が使えない時に便利だよ」  朔馬はそういうと、歩幅が半歩ほど違った理由をぶつぶつと考えはじめ、そしていつの間にか納得したようだった。  こういう些細な努力の積み重なりを、他者は「才能」の一言で片付ける。そしてそれは自分も例外ではなかった。 「夜なのに、子どもが多いんだな」  朔馬はいった。  店先で提灯を持って歩いている禿(かむろ)の姿は、船人にとっては日常風景である。しかし朔馬たちの目には、奇妙に映ったらしい。 「遊女の見習いの新造(しんぞう)や、その世話をする禿(かむろ)は、君らよりも年下が多いだろうな。親に売られてここに来た者や、親が死んでここに行き着いた者がほとんどだ。どんなに幼くても、働かなきゃここでは生きていけない」 「ここが雲宿公認だと思うと、なんだか変な感じだ」 朔馬は通り過ぎる禿を見ていった。おそらく八歳くらいの童女である。 「ここは親に護ってもらえない子どもの受け皿としても、一応は機能しているせいかもな。それなりに秩序もある」  船人はいった。 「でもそれは、子どもを搾取する側の言い分にも思えるけど」  朔馬はぽつりといった。 「そうだな。搾取する側の言い分だな」  船人は素直に認めた。 「遊郭は高い塀とお歯黒(はぐろ)どぶに囲まれて、出入口は大門だけだ。そうでもしなきゃ逃げる遊女は多いんだろうよ。でもここを出たとしても、苦労はするだろうな」  朔馬もハロも、船人の言葉をじっと聞いている気配があった。 「ここで働く者は、幼い頃から遊郭にいる者ばかりでな。遊郭では文字の読み書きや芸事は教えてもらえるが、それだけだ。常識ってもんがこっち側で、えらく偏りがある」 「子どもって、みんなそうじゃないのか」 「そう、か。そういわれるとそうかもな」  朔馬のいっていることはもっともなように思えた。  一般家庭の子どもについても、文字の読み書きや芸事しかできない子どもは多いだろう。なにより、弟の香円は絵を描く以外は、まるで常識はないことを船人は思い出していた。 「話は変わるが、銀将の出自は知ってるだろ」  二人はうなずいた。  銀将の瀬戸銀幽が、遊郭の出身であることは周知である。 「数年前から、遊郭内でも妖術書を学べる場所ができたんだ。おそらく遊郭から、銀将の役職者が出たからだろうな」  銀幽は新造の頃から美しく、一部では評判になっていた。さらには芸事も達者で、当時からとても賢かったという話である。  銀幽が客を取るようになると、すぐに人気の遊女となった。その客の中には当然のように雲宿の者もいた。その客が気まぐれに銀幽に妖術書を渡し、一年後に銀幽が抜刀したという話である。  銀幽は当時の楼主の図らいで妖将官試験を受験し、そして合格した。  それから銀幽は将学院に入学すべく、遊郭を去った。いうなれば、雲宿に身請けされたのである。  稼ぎ頭の銀幽を楼主が簡単に手放すとは考えにくい。おそらく妖将官試験を受けられるように手配したのは、銀幽に妖術書を渡した者だろうといわれている。しかしその真相は今も定かにはなっていない。  将学院に入った銀幽は、その才能をまたたく間に開花させた。遊郭での質素な食事でなく、栄養のある食事を三食与えられ、体力がついたことも影響したのだろう。 そして銀幽は朔馬と同じく、将学院を二年で卒業したのだった。   つい数年前、瀬戸銀幽は銀将の役職に就いた。  遊郭内で妖術書を学べる場所ができたのはその影響、もしくは銀幽の采配なのだろうと船人は思い込んでいる。  そこに通う者たちは、自分も銀幽のように妖将官になれることを夢見ているはずである。 「現場で働く妖将官や、優秀な与兵たちが、たまに講師としてそこに出向いてるって話だ。だからなんというか、なんだ。遊郭でも夢を見ることは可能だ」  船人はそういった後で、搾取する側の自分の言い訳を二人に聞かせてしまったことを恥じた。 「それはきっと、いいことなんだよな」  朔馬はいった。 「そう思うよ」  妖術書を誰に教わったとしても、抜刀できる者は(まれ)である。  遊女が二十歳になって抜刀できなかった場合、その落胆は船人が経験した以上の絶望ではないかと想像する。遊女に確率の低い夢をみせることを残酷だと思う反面、こんな場所でみられる夢があるなら、それもいいように思う。  考えても仕方のないことを考えながら、船人は二人を河田屋まで送った。  船人が顔を出すと、楼主(ろうしゅ)は二体の式神であるところの二人を歓迎した。  船人はそれを見届けて、九郎兵衛番所へ戻った。 ◆◇ 「俺は今も、妖将官になれなかったことが悔しいのかねぇ」  船人は長く息を吐いた。  朔馬とハロがこの建物の中に、任務として待機していると思うと妙な気分であった。 「そうなの? でも今は立派な武官なんでしょう」  船人の膝に寝転がる千景(ちかげ)はいった。  千景は芸事の類は多少できるが、読み書きが苦手で、客に手紙を書くことがない。 物覚えが悪く、親に愛想をつかされてここに売られたのだと本人が話していた。楼主いわく、頭の中が子どものままで成長を止めており、そういう者も特にめずらしいわけではないらしい。 千景は気の利いた言葉も出ないが、そのかわりに嘘がない。船人はそれが気に入っている。  千景が遊郭でしか生きられない人間だとは思わない。しかしここを出ると、それなりに大変だとは思う。大人になってしまった者の成長を待ってくれるほど、世の中はのんびりと動いてはいないのだった。 「立派な武官ねぇ。絵描きになりたかったし、妖将官にもなりたかった。その夢を何一つ叶えてないのに、立派といわれるのは、なんだか悲しい気もするんだよな」 「浮ちゃんが悲しいと、私も悲しい」  千景は本当に悲しげな声を出した。 「悲しいというか、不思議な感じなんだろうな。子どもの頃の夢を叶えられないままで、なんで大人のふりをしてるんだろうなとも思う」 「大人のふりしてるの?」 「みんなそうだよ」 「じゃあ、みんな悲しいの?」 「どうなんだろうな」  妖将官になった自分を想像してみようにも、それは上手くいかなかった。 「現状に満足できる者ってのが、結局一番強いのかもな。その点、俺はどうなんだか」 「浮ちゃんは強いよぉ」  千景はそういって、船人の腰に細い腕を巻き付けた。 「刀出せるんだから、強いよぉ」  千景の言葉に船人は小さく笑った。 「そうだな。妖将官にはなれなかったけど、抜刀はできるからな」  船人がいうと、千景は「みせて、みせて」とせがんだ。  最近は河田屋に通う度に、抜刀をせがまれる。  船人は呼吸を整えた後で、左手を左腰に置いた。静かに妖術書の内容を反芻する。そして両人差し指の第一関節を交差させるように擦ると、船人の右手には肢刀が現れた。  握っているだけで、びりびりと体力が消費していくのを感じる。  千景は肢刀を見て「すごい、すごい」と無邪気に喜んだ。  船人が肢刀を手放すと、それはたちまち消失した。 「今日はもう終わり?」  千景はがっかりした声を出した。 「もう終わりだ。仕事終わりで、疲れてんだ」  船人は聞かれてもいない言い訳をして、千景を撫でた。 「また今度、見せてね」  そういわれることが、船人はこの上なく嬉しかった。
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