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第八章【学校行事以外で】波浪
河田屋に到着すると、私たちは楼主に屋根裏へと案内された。
「狭いけど、静かな場所です。何卒、よろしくお願いします」
楼主は私たちに頭を下げると、すぐに仕事へと戻っていった。おそらく今が一番忙しい時間帯なのだろう。
私たちは楼主が去ったのを見届けた後で、屋根裏を抜け出した。そして人目につかぬ場所に、何枚か御札を貼って歩いた。朔馬いわく、河田屋の中を監視しやすくするための御札である。
それを終えると、私たちは再び屋根裏へと戻った。
夕飯時なので、私たちは母に持たせてもらったおにぎりを食べることにした。
「赤い」
ラップに包まれたおにぎりを見つめて私はいった。どうにも大量に刻み梅が入っているようである。
「本当だ、赤いね」
朔馬はそういって、おにぎりを口にした。
「いつ食べるっていわなかったから、こんな風にしてくれたのかな」
保冷剤の入った保冷バックからおにぎりを取り出したわけであるが、おにぎりは常温になっていた。
「えっと、どういう意味だろう」
朔馬はいった。
「梅干しを入れたおにぎりは、腐らないらしいから」
朔馬は「そうなんだ。知らなかった」と呟くようにいった。
「だからいつもお弁当に、梅干しが入ってるのかな」
「どうだろう。あれは、ただの彩りじゃないかな。一年中入ってるし、かわいいから」
「そうなんだ。彩りか」
「うん、大事なことだね」
「大事だね」
おにぎりを食べ終えると、私たちは真夜中になるまで仮眠を取ることにした。
屋根裏には座布団がたくさんあったので、それを敷いて横になった。
「変な時間だけど、眠れるかな」
朔馬はいった。
今は午後七時半くらいである。
「目を閉じて横になってれば、きっと眠くなるよ」
私はいった。
屋根裏には光源はなく、薄暗い。さすがにこの時間だと日も落ちているので、屋根裏にはぼんやりと外灯が差し込むだけである。
揺らぐ光の中で、私とそれほど年の変わらない者たちが性を売っている。その事実をどう受け止めていいのか、わからないままでいる。
その現実に目を閉じてしまうと、私はすぐに眠りに落ちた。
◇
ふと目が覚めた時、なんだか妙に心細かった。
暗い部屋の中で、ぼんやりと何かが光っていたので私は静かにそちらに目を向けた。そこには、携帯端末を見つめる朔馬の背があった。
その姿がなければ、私は泣いていたかも知れない。
「寝てないの?」
私がかすれた声でいうと、朔馬は「ん?」と、こちらを振り返った。
「少し眠ったよ。もう一度、寝ると思う」
朔馬はそういうと、体勢を変えて仰向けになった。
「今、写真をみてたんだ」
朔馬はいった。
「執務室で目を通せなかった書類の写真だよ」
「そういえば、そんなことしてたね」
携帯端末を見つめる朔馬を見ていると、心細さのようなものは小さくなっていった。そして微かに残っていた眠気が戻ってきた。
ひどく非日常的な場所にいるにも関わらず、日常をともにする者が横にいてくれるだけで深く呼吸ができる。
それでもなんだか無性に、家族に会いたかった。
その後で、母は今夜はちゃんと眠れるだろうかと思考した。
私が完全に眠りに落ちる前、朔馬が眠る体勢になった気配がした。
「帰りたくなったら、今からでも。いつでも、帰れるから」
朔馬は小さな声でいった。
「入れ替わりの件は今日じゃなくても、どうにでもなるよ」
その言葉は私に届かなくても構わないと、そう思っている声量であった。朔馬は無理に優しい声を出すでもなく、普通のことのようにいった。
「ありがとう。でも、大丈夫」
私の声は、自分が思っている以上に寝入りそうな声であった。
「少しだけ、お母さんのことが心配なんだけど。でも、大丈夫」
そういった後で、私が心細く思っている原因の九割はそれなのだと理解した。
「小学生の頃、お母さんが不安定な時期があって。それを思い出したの」
私の寝言のような独白に、朔馬は「うん」とだけいった。
その声をきいた後で、朔馬は私と入れ替わっている間に、それらの記憶に触れていたのかも知れないと思った。
「凪砂の出生の話を私たちにしてくれた日から、お母さんは不安定になっていったの。一番ひどい時は、私たちが小学校に行く時も泣き出しそうな顔してた」
私はきっと今まで忘れていた。
「お母さんが不安定だったのは、二ヶ月もないくらいなんだけど。私はずっとそれを引きずってたの」
夜中ふとした拍子に、母が泣いている姿を見てしまったことがあった。
私はそれを見て、ひとり泣いた。
両親は私と凪砂の前では、感情的になることはほとんどない。そもそも私たちの周りには、感情的な大人がいなかった。激しく怒ったり、泣いたり、笑ったりする大人を見るのは、画面越しでしか見たことがなかった。周りにいる大人たちは、どこか完成された別の生き物のように感じていた。
だからこそ幼い私は、母の泣いている姿に激しく動揺し、傷ついた。
きっと私はその頃から、母や大人たちも私たちとそれほど変わらない生き物のだと理解したように思う。
その日以降、私は必要以上に家にいることが多くなった。
小学校でも、中学校でも、部活に入ることもなく、まっすぐに家に帰った。一刻も早く、母のいる家に帰りたかった。
「でも、そんなこと忘れてた。なにも考えずに家を留守にできて、今はなんだかほっとしてる」
朔馬は再び「うん」とだけいった。
私はその声に安堵し、再び眠りについた。
◇
ヴヴ……
ヴヴヴ……
小さな振動音が、屋根裏に響いた。
「午前一時半だ」
朔馬はもぞりと起きて、かすれた声を出した。
私も朔馬も寝ぼけた顔のままで、のそのそと上半身を起こした。それから私たちは背中を向け合って、体拭きシートで体を拭いて目を覚ました。
「まだ事件は起きてなさそうだな」
朔馬は屋根裏の床に手を当てて、注意深くいった。
まだぼんやりしている私をよそに、朔馬は早々に仕事をする頭に切り替わったようである。
建物内に御札を仕込んだので、朔馬が河田屋の中にいる間は妖怪が入り込んだ場合は感知できるらしい。おそらく我が家に張ってくれている結界と、似たようなものなのだろう。
「血を吸う妖怪ってたくさんいるの?」
私はきいた。
「完全に把握してるわけじゃないけど、割と多くいるよ」
「今更なんだけど、なんで男女の血を吸うんだろう」
朔馬はすでに答えを持っているらしく「ああ」といった。
「一個体の血だと飽きるから、別の個体の血を吸うんだと思う」
当たり前のようにいったので、そういう妖怪はめずらしくないのだろう。
「作物を食い荒らす害獣も、一つを食べ切ることなく適当に食べるから、そんな感じかな」
「わかりやすい」
私は馬鹿みたいな感想を述べた。
「でも昼間ハロがいったみたいに、人間の仕業って可能性もゼロではないのかな」
朔馬はそういうと、再び確認するように床に置いた自分の手を見つめた。
「今は、ほとんどの人間が眠ってるように感じるな」
「眠ってるかどうかもわかるの?」
「静止してるから、たぶん寝てるなと思って」
朔馬はそういってから、こちらを見た。
「河田屋になにかありそうだとは思うんだけど、それがなんなのか今もわからないんだよね。ハロは河田屋について、なにか思うことある?」
船人に他の見世もみせてもらったが、河田屋に関してはなにか感じるものがあった。しかしそれがなんなのか、確信できないままでいる。
「なんだろう。他の見世より豪華だなって思ったかな」
私はなんの利益にもならないことをいった。
「そういえば、俺も似たようなことを思ったな。見世に格付けがあるって聞いた時だったかな」
船人は格が高い順に、大見世、中見世、小見世とあるのだと私たちに説明した。
その際に朔馬は「河田屋は大見世なのか」と、船人にきいていた。
「私も、河田屋は大見世だと思った」
「俺たちはなんでそう思ったんだろう。豪華だとか、大見世だとか」
朔馬はそういった後で「あれ」と不思議そうにいった。
「なんだろう。なにか動いた気がする」
朔馬はピタリと集中したので、私も沈黙した。
「なにかいる、のか」
朔馬は独り言のようにいった。
「被害があった部屋、覚えてる? どの部屋にも屏風があった」
朔馬はこちらを見ずにいった。 朔馬のいう通りであるが屏風の置かれた部屋は多かったので、不思議に思うことはなかった。
それの何が気になるのだろうと思いつつも、私は「そうだね」と肯定した。
「彩り、か」
朔馬はぽつりといった。
「河田屋にある襖や屏風は、なんだか豪華に見えた気がする」
「そうかもしれない」
私はそれらを思い出しながらいった。
赤が印象的な、美しい絵ばかりであった。
「屏風だ! 絵の中に潜んでいた妖怪がいるんだ」
朔馬はそういうと、すっと立ち上がった。
「捕獲する。二階の西から二番目の部屋だ。後からきて!」
朔馬は屋根裏のはしごを飛び降りると、私の視界からあっと言う間に消えていった。
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