第九章【殺気立って】船人

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第九章【殺気立って】船人

 千景と布団で眠っていると、胸の奥がひりひりと熱くなったように思えた。  最近は、こういう夜がたまにある。  寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、軽い足音が足元を駆けていった。禿(かむろ)が廊下を走っているのだろうかとも思ったが、すぐにそうではないと思い直した。  おそらく朔馬である。  なにかあったのだろう。  船人は軽く身支度を整えてから、千景を起こさぬように部屋を出た。するとハロが、ものすごい速さで船人の目の前を駆けていった。俊足である。  ハロはある部屋の前で止まったので、船人もすぐにその部屋へ向かった。 「ハロ。この人たちと一緒に、楼主のところへ報告にいってくれないか」  朔馬の落ち着いた声が、船人の耳に届いた。  部屋を覗いてみると、思わぬ光景に船人は息を飲んだ。  七十センチほどのオオサンショウウオのような赤い生き物を、朔馬が左手で畳に押さえつけている。そして朔馬の右手には肢刀が握られていた。広場で武官を負かせた時と同じような体勢である。  その部屋で同衾していたであろう男女は、身を寄せ合ってガタガタと震えるばかりであった。しかしハロが「移動しましょう」と落ち着いた声を掛けると、二人はよろよろと立ち上がって部屋を出ていった。  遊女の方は河田屋に妖怪が出ると聞いていたのか、男性客よりも幾分足取りがしっかりしているように思えた。  ハロと男女が部屋を出ると、船人は入れ替わるようにして部屋に入った。  朔馬は右手の肢刀を消すと、人差し指と中指を立てて害妖に向けてなにかを詠唱した。 害妖は相変わらずぬたぬたと動いているが、その場からは移動できないようである。それを確認すると、朔馬は害妖を押さえつけていた左手を離した。  朔馬が手を離しても、害妖はその場で小さく動くだけであった。 「この害妖が、河田屋で起きていた事件の原因なのか」  船人はいった。 「そうだろうね。おそらく辰砂龍(しんしゃりゅう)のなり損ないか、何かだな。いや、幼体なのかな。とにかく辰砂龍だ」  辰砂龍。その名を聞いて、生傷をざらりと舐められたような気持ちになった。  辰砂龍はその名の通り、赤い龍である。毒を持ち、その体の一部は鉱物の辰砂によく似ている。 「俺の知ってる辰砂龍とは、ずいぶん違うように思うがな」 「龍は育つ環境によって、幼体も様々らしいから、これもそうなんじゃないかな」 「しかし、なんだってこんなところに……」 「その辺の調査は、他の者に引き継がれると思う。船人も報告書を求められる可能性があるから、そのつもりで」  朔馬は事務的にいった。  仕事が絡むと、途端に十五歳という幼さは消えるようである。  船人は「わかった」とうなずいた。  そのすぐ後で、朔馬の左手から大量の出血があることに気が付いた。 「朔馬、その左手。大丈夫か」  船人が声を掛けると、朔馬は初めてその出血に気付いたようだった。 「すぐに止血をしないと」  朔馬は不思議そうに、自らの左手を見つめた。  ピチャ。  水が跳ねたような、そんな音が船人の耳に届いた。  直後、朔馬の左手の血がぬたぬたと動き出した。 「朔馬!」  船人は咄嗟に抜刀した。  瞬間、嫌な予感がした。冷たい風が船人の足元を撫でたように感じられた。  船人は反射的に、捕らわれているはずの幼体に目を向けた。  その幼体は、じっと船人だけを見据えていた。  辰砂龍の幼体は、船人を見つめたままみるみる大きくなっていった。そして立ち尽くす船人を前に、その口を大きく開けた。  船人は、応戦しようと肢刀と構えた。 「やめろ!」  朔馬のその声は、しっかりと船人に届いていた。  しかし船人は肢刀を振るう動作を止められず、辰砂龍の幼体に斬りかかった。幼体は船人の肢刀を恐れる気配も見せず、船人を食らうべく牙を剥いた。  その牙が船人に届く直前、視界は暗転した。 ◆  弟の香円(こうえん)は幼い頃から絵が上手く、そのこだわりも強かった。  色へのこだわりから、時々山に入っては鉱物を採ってきて自分で岩絵具(いわえのぐ)を作るほどである。  香円は体が丈夫ではなく、さらには絵ばかり描いているので当然のように山歩きに慣れていない。そのため香円が鉱物を採りにいく際は、船人が必ずそれに付き合っていた。  その日は辰砂(しんしゃ)がよく採れた。  美しい辰砂がよく採れたので、香円も船人も夢中になった。しかし夢中になるあまり、気付かぬうちに洞窟(どうくつ)の奥まで来てしまっていた。これ以上は奥に進まない方がいい、そう香円に声をかけようとした時だった。  嫌な風が吹いた。  冷たい風が地を這うようにやって来て、二人の足元にまとわりついた。  辰砂が多い場所には、辰砂龍がいる。  そんな話を聞いたことがあった。 「に、兄さ……」  震える声で香円がいった。  腰を抜かした香円の視線の先には、辰砂龍が鎮座していた。  辰砂龍はめずらしい妖怪というわけではない。時々はるか上空を飛んでいる姿を見かけることがある。  しかし初めて間近に見るそれは、吐き気がするほどに恐ろしかった。  さらにその辰砂龍は手負いらしく、ひどく殺気立っていた。  手負いの妖怪は凶暴化しやすい。それくらいの知識は船人にもあった。 「大丈夫だ。静かにこっちに来い」  しかし香円は震えながら、首を振るだけであった。 「大丈夫だ。大丈夫だから」  それらの声が気に触れたのか、辰砂龍は耳をつんざくような声で鳴いた。  それから苦しそうに身をよじらせると、近くにいた香円へと襲いかかった。 「香円!」  船人は咄嗟に抜刀し、香円に襲いかかる辰砂龍を斬りつけた。  どうやって、どこを斬ったのかは覚えていない。ただ体が勝手に動いたのだった。  辰砂龍は悲痛な声を上げ、船人の足元に倒れた。  その後、どのように香円と山をおりたのかは思い出せない。  ただその場から離れることに必死だった。  どれだけ辰砂龍から離れても、船人の手にはざらりとした嫌な感触が残り続けた。 ――肢刀を使ってはいけない  対人で幾度も剣を振るえども、これほど生々しく感触が残ることはなかった。  なんの罪のない生き物を、勝手な理由で傷つけた。  弟と自分を守るため。それを言い訳にして、あの生き物を傷つけてよかったのだろうか。  そんなことばかり考えて、その夜はついぞ眠れなかった。 ◇  その翌日、船人は蜜木に洞窟であった出来事を報告した。  肢刀を使ってしまったことを上官に報告するべきだと思ったし、懺悔のようなことをしたかったのかも知れない。  しかし蜜木は、船人を責めるようなことはしなかった。 「妖将官ってのは華やかに見えるけど、なかなか原始的な職業だと僕は思っています。いや原始的というのは違うのかな。一次産業に近い職業というんですかね」  蜜木は言葉を選ぶようにしていった。 「俺たちは動物の肉を食うでしょ。でも無意味に生き物を殺すなといえるでしょ。それって結局、自分たちが飢えていなかったり、危険にさらされていないからいえる綺麗事な気がするんですよね。畜産業やそういう職業の人たちに、見たくない部分をすべて押し付けているからこそ、俺たちは綺麗事をいえると思うんです」  蜜木はそういって自分の右手を見つめた。彼がなにを思っているのか、船人には想像もつかなかった。 「意思疎通の図れない生き物を手にかけるってのは、それなりにしんどいです。でも俺たちは生きている以上、なにかを奪い続けて自分の居場所を確保していくしかないんだと思います」  蜜木はそういって、いつものようにふわりと笑った。 「この件は一応、上に報告します。上から通達があるまでは、通常通り勤務して下さい」  しかしその後、その件についてはなんの連絡もなかった。  ほっとする気持ちと、これでいいのだろうかという気持ちが船人には混在したままであった。 ◇  弟の香円は辰砂龍に会った日から、高熱を出してしばらく寝込んでいた。  それでも船人が寝床に顔を出すと、香円は嬉しそうに微笑んだ。 「あの時兄さんがいなければ、僕は死んでいました。兄さんは、僕の誇りです」  熱にうなされながらも、香円は何度も船人に礼をいった。  香円が生きているのならば、それ以上のことはない。 船人はそう思うことにした。  香円は数日寝込んだが、ほどなく仕事に復帰した。  その頃はちょうど、河田屋からの依頼を多く受けていた。 河田屋の楼主は船人の弟が絵師であることをどこからか聞きつけると、屏風の絵を依頼してくれたのだった。  香円が格安で依頼を受けると、楼主は大変喜んだ。さらには香円の絵も気に入ったらしかった。それからはなにかある度に、香円に絵の依頼をしてくれるようになったのだった。 「香円さんの絵は、(あか)がいい」  香円の作品をみて、楼主はいった。  たしかに香円の描く紅は美しかった。とても美しい紅だった。    そしてそれは辰砂龍に出会った日に採れた、辰砂の紅だった。  河田屋の屏風や襖はたちまち評判になった。  それがきっかけとなったのか、香円は今ではたくさんの依頼を受けている。  でも、それがなんだというのだろう。  なにがいけなかったというのだろう。
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