彩—アヤ—

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 僕は心療内科にいた。長年にわたって、憂鬱であり、ある一抹の不安があったからだ。 「先生、僕はうつ病なのでしょうか。」と僕は聞いた。 「いいえ、違いますよ」と先生は、いともあっさりと言い放った。 「未来に対して不安になってしまうのは、あなたの気質なのです。あなたはこの先の人生のためにも明るく生きるコツを掴むべきですよ。」と先生は続けた。 「近くにカウンセリングのできるクリニックがあります。そこに行ってみてはどうでしょうか。」と先生はそう言って、クリニックの名前の書いたメモ用紙を渡してきた。 「ありがとうございます。そうしてみます。」と僕は言って、そのメモを受けとったが、カウンセリングに行くつもりはなかった。  僕は長年のこの陰気な気分は、うつ病のせいなのだと思っていた。しかしそうではなかった。僕はすっかり気が抜けてしまった。何もかもがどうでも良い。 ◯  このような僕をこの世界に繋ぎ止めていたのは、アヤの存在だった。アヤは高校一年の時のクラスメイトで、僕の一つ前の席だった。アヤは天真爛漫で、活発なまるで小学生のような女性だった。僕たちは自然と仲が良くなった。僕の陰鬱な性格も相まって、彼女のその明るさに僕は惹かれた。アヤは明らかに僕の持っていないものを持っていた。アヤと一緒にいると、まるで自分が自分ではないような気分になった。僕を主に構成する陰鬱な気分はどこか飛んでいってしまい、ハツラツな彼女と共に戯れる犬のように、動物的な明るさを手にできたのだ。 ◯  大学一年生の七月から突然アヤからメールが来て、それをきっかけに僕たちは毎日メールのやりとりをした。その多くはくだらないもので、アヤからくるメッセージは一日に一文ほどだったので、多くの事を話し合うことはできなかったが、彼女からくるメールをじっくりと考え、送る作業は日常の一つとなっていた。時々会って、映画やお笑い芸人のライブ、野球観戦など共通の趣味を一緒に楽しんだ。僕はこの上なく幸せだった。青春を謳歌していた。僕はモラトリアムに浸り、彼女は残り少ない学生時代を楽しむ努力をしていた。 ◯  大学一年の秋、僕たちは下北沢で会う約束をしていた。 「ごめん遅れて、待った?」とアヤは小田急線駅改札前で立っていた僕に駆け寄ってきた。 「いいや、それほど待ってないよ」と僕はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を閉じ、笑顔と共に言った。  午後六時の駅前は本を読むには暗かったが、アヤと会うことのできる喜びを落ち着かせるには本を読む他なかった。 「何を読んでいるの?」とアヤはたずねた。 「単なる哲学書だよ」それを聞いたアヤは、少し不思議そうな顔をした。彼女には本を読む習慣も、哲学について考えた事もなかった。と言っても『愛するということ』は哲学書ではない。ただそれ以外に言いようがなかった。 「今日はどこに行くの?」と彼女は僕に訊いた。 「特に決めてないな」と僕は言った。 「あなたから呼び出したのに?」と彼女は言った。この日、二人で会おうと言い出したのは僕の方だった。 「まあ、仕方ないよ、考えてないものは考えてないのだから。」僕は内心焦った。待ち時間の間に本なんか読まずに、雰囲気のいいカフェでも検索するべきだったのだ。 「とりあえず歩こう」僕達は、とにかくいい雰囲気の店を探すことにした。  お店を探す道中、フリマーケットやレコード屋に寄りながら、結局は大衆的な大手ハンバーガー屋のチェーン店に入ることになった。  この日会ったのは、二人で旅行に行こうという話が持ち上がり、どこへ行くかとか、何をするのか、お金はどのくらい必要かを話し合うためだった。しかしそんなことは話の冒頭で終わり、その後延々と僕たちは高校時代のバカした話や思い出話をしていた。僕はこの時間が永遠に続いてほしいと願った。 ◯  僕たちは付き合ってない男女としては仲が良かったが、付き合っている男女よりは仲は良く無かった。僕たちに肉体的関係はなかったが、互いに心を許し合っていた(と思いたい)。関係を持たなかったのは、アヤが僕のことを単なる友人の一人としてしか認識してなかったからか、もしくは関係を持ったら元には戻れないことを知っていたからかもしれない。 ◯  僕には中学の三年の夏から高校の二年の冬まで約二年間付き合っていたガールフレンドがいた。ハルカという娘だった。中学校は同じだったが、高校は違う高校に通っていた。背が小さく、美人でもなかったが、とにかく優しく、未熟な僕を懸命に愛してくれた。  愛するということが、相手に尽くし、相手の幸せを祈ることなら、僕はハルカを愛してはいなかった。僕は常に求めた。ハルカの愛情と抱擁を。しかし僕の中には決して入れなかった。僕の心は他人が入ることを決して許さなかった。  結局僕たちが一緒に寝ることはなかった。高校二年の夏に僕はハルカを求めた。僕は映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のメインテーマ『Buon Giorno Principessa』を流しながら、薄暗い部屋で彼女にキスをした。僕が舌を彼女の口に入れる。彼女はこわばって口を閉じてしまう。僕は彼女を押し倒して、勃起している僕のペニスを彼女に押し当てながら、彼女の服を脱がせようとする。 「だめ、やめて」とハルカが言う。  その瞬間、僕は正気に戻った。 僕は彼女の体からすぐに手をどかした。僕は何を言えばいいかわからなかった。 「やっぱり続けたほうがよかった?」と彼女が服の乱れを直している間に僕は言った。なんてバカだったのだろう。 「ううん」とハルカが首を横に振った。「親からこういうのをするのは、大人になってからって言われているから」とハルカは言った。  彼女はこう言ったが本当は、彼女は愛なき性交を望まなかったのだろう。僕はこの時、ハルカをなんとも思ってなかった。小学生の時の化学実験のような、高揚感と好奇心でしか恋愛を楽しめていなかったのだ。そして他の思春期の少年が女とやりたいと思うように、ハルカとやりたいと思った。ハルカはそれを知っていたのだと思う。彼女もまた求めていたのだと思う。僕の好きだという言葉や、心からのキスを。見てくれだけのプレゼントはいらなかったのだ。  性交を試みた三ヶ月後に僕たちは別れた。僕は別れを告げる時、二年間をこんな僕に費やしてしまって申し訳ないと謝罪した。これは本心だった。ハルカはそんなことないと言った。この時の僕は、ハルカに受け入れられなかった失望と自己嫌悪にまみれていた。この時の僕は常に求め与えられるのが愛だと考えており、それが拒絶されたというのは大きな失望だった。それはまた恨みでもあった。ハルカが嫌がることをしてしまった自分を嫌悪していた。僕はハルカに見合う男のはずではなかったのだ。  様々な要因で僕たちは別れた。いや、多くの要因を思いつくことで、僕がハルカを愛してなかったことが、唯一の理由であることに気づかないようにしていた。 ◯  アヤはその学生時代を片想いで終えた。アヤが好きだった男は背が高く、頭がよく、顔立ちも整っていた。男から見ても魅力のある男だった。ほとんど何も勝ててはなかったと思う。だからと言って、僕は彼のことを憎んでも恨んでもなかった。その次元にはいなかったのだ。兎にも角にもアヤはその男に惚れていた。どうしようもなく惚れていた。高三のバレンタインデーにアヤが彼にチョコレートを渡し、彼女が泣きながら廊下を走るのを僕は目撃した。昼休みだったので多くの人がその姿を見ていた。そして僕もその一人に過ぎなかったが、僕はとても大事な、女性のとても大事な部分を見てしまった気がした。それが何なのかあまり言葉にできないが。  僕はアヤの恋愛相談によく乗った。僕がアヤとアヤが惚れている男の両方と仲が良かったからだ。でも僕はその話をされるたびに、とても悲しくなった。でもそれでも僕は自分に嘘をついてでも、アヤの幸せを祈る他なかった。だから多くのアドバイスをした。彼女は彼に好かれるために努力していた。しかし、とうとうアヤは彼を振り向かせることはできなかった。卒業後にたった一度のデートをして、アヤは彼を諦めた。 「一度デートに行ってね、気づいたの、彼の魅力の無さとか意地悪さに。それにもうR大学の子と付き合っているみたいだし。」彼女は僕に愚痴をもらすかのように言った。  それを聞いて僕は内心ほっとしていた。もしかしたら僕のことを好きになってくれるのではないかという希望を抱いていた。やはり僕は求めてしまうのだ。 ◯  率直に言えば、僕とアヤが毎日メールをし、時々会う約束をして、デートまがいなことをするのは、過去の恋愛を引きずっているからなのだろう。醜い人間的な傷の舐め合いなのだ。僕は恋愛の続きを、アヤは恋愛を忘れることを望んでいた。だから僕はアヤ以外に仲のいい女性を作らなかったし、アヤは数多くの人(男女を問わず)と遊んでいた。  僕はときどき嫉妬した。彼女が遊びに誘う人全てが自分であって欲しかった。僕以外の男とは連絡をとってほしくなかった。毎日会いたかった。しかしアヤはドライで冷たく僕に接していた。他の友達と話すように、僕といつも話していた。彼女からメールをくれることも少なかった。僕は、ただただ悲しかった。 ◯  僕は夢を見た。アヤが僕の住んでいる街まで来ていて、多くの友人と遊んでいる。僕はなぜかそこにはいなくて、LINEのグループチャットのみが盛り上がっている。僕はそのグループチャットでアヤに告白まがいなことを送る。そしてすぐに家を出る。しかし街をいくら探してもアヤは見つからない。アヤはみんなと一緒に帰ってしまったのだろうか。僕はとてつもない不安に駆られてしまう。  その先は覚えていない。僕はアヤと出会えたのだろうか。もしくは出会えず終いなのだろうか。ぼくは目覚めてすぐ、昨日の夜に酔いながら送ったメールにアヤから返信が来ていることを確認した。 ◯  アヤの父親は売れない劇団員で、母親はその手伝いをやっているようだった。狛江の団地に住んでいて、世田谷区や目黒区から来ている奴らよりも、いささか貧乏な印象だった。それでも公立の高校だったので気にすることはなかった。  アヤに誘われて僕は一緒に彼女の父親の出る舞台を観に行った。一度目は高校一年の冬、アヤと二人きりだった。僕は今ほどではないが、アヤに好意があった。しかし僕はそのときハルカと付き合っていたので、後々あれは浮気だったのかと思い悩んだ。公演は面白かった。アヤの父親の劇団はコメディ色の強いもので、心に訴えかけるものこそないが、日常のつまらない悩みなどを吹き飛ばしてくれた。  二回目は高校二年の夏、四人で行った。僕とハルカとアヤ、そして僕とアヤの共通の友達とである。アヤは後になって、 「あなた、ガールフレンドをいきなり連れてくるんだもん。頭おかしいかと思ったわよ」と言った。僕は笑いながら聞いていたが、あながち僕の頭がおかしいのは、間違っていないなと思った。  僕がなぜハルカを公演に連れてきたのかと言うとそれは、僕はまだハルカのことが好きだったからだ。そしてアヤと二人で公演に行ったことに対して、ケジメをつけるためにアヤとハルカを会わせた。ケジメとは、僕にはちゃんとガールフレンドがいて、あなたに好意はないという意思表明のことだ。ハルカにもアヤとその友達が来ることを言っていなかったので、ハルカは最初、驚いていたが、彼女はその無条件の優しさで怒ることはなかった。結局ハルカはアヤとほとんど話さず、僕とばかり話した。僕はアヤと僕が恋人同士であることを見せつけ、僕はアヤを一度諦めた。  三回目は高校二年の冬、僕とハルカが別れた後に行った。また四人だったが、今度はハルカの代わりに違う女の子だった。その女の子はアヤの部活が一緒で、アヤと仲の良い子だった。いい子だったが、惹かれなかった。僕はアヤばかり見ていた。アヤは僕のことなんて見ていなかった。  高校生活はあと一年あったが、これ以降、公演を観ることはなかった。僕たちは大学受験で手一杯だったし、新型コロナウイルスの影響で公演は全て中止されてしまっていたからだ。おそらくこのウイルスのせいでアヤの父親は仕事が減り、アヤは大学進学を断念した。そして二年間のテレビ関係の専門学校に進学することを選んだ。僕はそのことを、高校を卒業してから半年経つまで知らなかった。僕は何だか悔しかった。お金の問題で彼女が大学に行けなかったという社会問題と彼女が僕に何の相談もしなかったことが、悔しかった。 ◯  アヤのその返信の遅さは、僕の精神状態を悪化させるのに十分だった。僕はアヤからの返信を待つためによく夜更かしをした。十分に一度携帯を確認した。いや、五分に一度かもしれない。とにかく僕はずっとアヤからの返信を待った。 ◯  何かが弾けるように、僕は数ヶ月に一度、2週間ほど不眠になる。全く眠れなくなるのだ。それがどうしようもなく辛いので、薬局で睡眠導入剤を買い、薬を飲む。それでも眠れなければ、三回ほどマスターベーションをする。そうしたら疲れ果てて、大体眠ることができる。  「それ」には波がある。「それ」が起こるとまず、今こうして文章を書いているように何かを始めたくて仕方がなくなる。恋をしたくなり、創作意欲がわき、行動的になる。そしてその後眠らなくなる。しばらくして、「それ」の波が津波のように僕を飲み込む。気分が沈み、口数が明らかに減る。ベッドから起き上がるのも億劫で、死にたくなる。すべての人が僕を裏切るような気がして、アヤが誰かと寝ている気がしてくる。こうした時はじっと目を瞑るしか無い。「それ」は僕を僕でなくす。僕はちっぽけな埃になる。風が吹けば飛んでいき、とても燃えやすい。 ◯  ボクは十一月二十九日を最後にアヤと会うことをやめた。別に喧嘩をしたとか、嫌いになったとかではない。ボクは彼女とただの友達になるためにこの決断をした。ボクは彼女と別れるのが嫌だったのに、それを嫌うあまりに自ら離れてしまった。あの時にボクが彼女に告白していたらと、今でも思う。しかしおそらく成功していなかっただろう。告白しなかったからこそ、今でも彼女とは友達でいられるのだ。それならば、このままでいいのだ。これでいいのだ。これでいい。
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