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五、 一日の終わりに……
「あれ……。お財布がない。ヨットに忘れてきたかな。ごめんなさい、バイト君、ちょっと戻って取って来るね」
女性客は、ショップを出ようとした。あわてて、隆男は
「ああ、お客さん商品はお持ちください」
と言いながら、商品をレジ袋に入れた。
「え、すぐ取ってくるよ」
「あの、お代はいただきますが、急がなくてもいいですよ」
「そう……。ありがとう。じゃあヨットに戻ったら、お金を持ってくるね」
「はい。ありがとうございました」
女性客は、商品を持ってヨットハウスを出て行った。
隆男は、ハアとため息をつく。ずっと見ていたかった。あの人。名前は何と言うのだろう。その後の隆男は、あの小麦色の女性客のことしか、考えることができなかった。ふと、気づくと閉店時間。戸惑いの連続だったが、大きなミスをすることもなく、『超初心者アルバイト』君は、バイト一日目を終えた。
今日の売上を確認している時。あの女性客が、代金を支払いに来ていないことに気づいた。
「たしか、23,100円だったよなあ」
閉店時間である。売上を施設長に報告しなければならない。
「ああ、もういいや。とりあえず立て替えだ」
そう言って、隆男は自分の財布から23,100円をかき集めてレジに収めた。あの女性客は、ヨットのオーナー(船主)らしい。きっと代金を持ってきてくれるだろう。再び『カフェオレ色の乙女』のことを思い浮かべる。未だに興奮冷めやらない隆男だった。
施設長がやってきて、隆男を労いつつ今日の売上を確認した。
「いやあ、初日にしてはよく頑張ったね。それじゃあ、明日もよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
努めて明るく礼をして、隆男はヨットハウスを出た。夏とはいえ、日は沈みあたりは暗く、ハーバーのオレンジ色の外灯が、停泊して揺れるヨットを照らしていた。中に人が乗っているのだろう、窓からところどころ明かりが見えている。
美しい曲線の船体。揺れるマスト。船内から漏れる明かり。漁港とはちがう萌える風景だった。ここは、恋人同士のデートで来るには、いい所だろうなと隆男は思った。ハーバーのゲートに向かって歩き始めたときだった。海の方から声がする。
「バイト君! 超初心者君!」
隆男は、振り向いた。ショップに来た忘れじの『カフェオレ色の乙女』だ。浮桟橋から慌てたように、こちらに手を振りながら走ってきている。
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