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六、 ヨットオーナー『花城碧姫』
「はあ、はあ、ごめんなさい。私、代金を払うのを忘れてたよね。はあ、はあ」
彼女は、膝に手をついて俯きながら言った。長い髪が、乱れもせず頬から垂れている。どんなしぐさも、息をのんでしまう。隆男は、しばらく言葉を失った。
「バイト君? 本当にごめんなさい。あれから、ヨットに帰って整備をしているうちに、ショップに行くのをコロッと忘れてた。本当よ。持ち逃げしたわけじゃないからね」
謝る顔が、悲しそうに見えて、隆男は、
「いやあ、持ち逃げなんて。そんなこと思っていませんよ。お客さんは、ここで停泊してるし、絶体またいらっしゃると思ってました。僕も、明日もバイトでここに来るし」
心配させないように、微笑みながら言った。
「あ、ありがとう。信用してくれてたのね。バイト君……、いや大迫さん」
「え、なんで僕の名前を? ……あ、そっか、名札を見せましたよね。その時のことを覚えていてくれたんですか」
ただそれだけの事だが、隆男は、頬が紅潮した。
「うん。大迫さん、上司の人から怒られなかった?」
「大丈夫です。僕が立て替えておきましたから」
「ごめんね。直ぐ払うから、船まで来てもらっていい?」
「え、お客さんの船を見せてもらえるんですか!」
「うん。私、花城碧姫。漢字で、花のお城に、あおみどりの碧い姫で、花城碧姫と言うの。碧姫でいいからね」
「は、はい。お客さんは、そのう、フランクですね。じゃあ僕は、大迫隆男の隆男でいいです」
「じゃあ隆男、時間ある?」
「え? あ、はい。特に用事はありませんが……。何でしょう?」
「私の船でディナー食べて行かない? 私一人だから気兼ねしないでいいし」
「碧姫さんは、一人で船に乗っているんですか」
「そうよ。一人で旅をしてるの。日本中をね。私の船を見せてあげる。来て」
碧姫は、さりげなく隆男の手を取って浮桟橋を沖に向かった。隆男は、思わぬ展開に微かに揺れる浮桟橋上で、足をもつれさせながら、碧姫に引かれて行く。
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