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Acte 13(虹の影 ~Jardin d'iris~)
――久々に舟の夢を見た。
けれどもいつもとは状況が少し違う。篠原亮は櫂で銀の舟を漕ぎながら、濃い霧の中を懸命に進んでいる――ような気がする。なんせ周りは霧だらけだ。進んでも進んでも白い霧があるだけで、景色が変わるわけでもない。舟の揺れる感触と、ざあと流れる水の音、頬を叩きつける強い風圧で、辛うじて前に進んでいるという自覚があるだけである。
帆先の銀の装飾が霧を割って空気の隙間が渦を巻く。白の薄れた霧の狭間もすぐに濃霧で埋められる。何があるわけでもない。変化が起こるわけでもない。このまま進んで何がある。本当にこのままでいいのだろうか。もしかすると何もないのでは。これでいいと勘違いをしているだけでは。などと次から次へと押し出される疑念につと駆られ、目標物の定まらない舟は推進力を徐々に削がれる。手を緩めると、櫂は舷に身を委ねるようにして舟の上で静かになった。
ふと気配を感じて辺りを見渡す。霧の山を超え、そのまた向こうの霧の奇峰に何かの影が映っている。赤と青の光の中に黒い三日月と人の影。墨を溶いたような淡い影が丸い虹の中に滲んでいる。
はて、あんなもの、今まで見たことがなかったけれど。こういう現象を耳にしたことがある。ブロッケン現象って言うんだっけ、太陽の光を受けた自分の影が霧に浮いて出てくるっていうやつ。影は一定の距離を保ったままこちらへ帆先を向けている。亮が右手を上げると向こうの影も手を上げた。へえ、面白い、と櫂を動かして影の方へと舟を近づけた。ザブンと漕いで舟は進む。虹の影もこちらに向かって進んでいる。なのに二者の距離が一向に縮まらない。漕いでも漕いでもその努力は泡と化す。
幾ばくかの刻が過ぎ、一抹の懸念が頭を掠めた。俺はいったい何やってんだ、いくら漕いだって出会えなければこの努力は無駄じゃないか。得体のしれない虹の影、永遠に近づくことのない目標物。あんなものを本気で追い求めようとするなんて、よくよく考えると馬鹿げてる。前へ進むのを止めようか。それとも別の方角へ向かおうか。何も見えない、白い霧だらけの虚無の世界へ舵を切って……
不安、脱力、倦怠感。そぞろな気分に手の力が抜け落ちた。動きを止める亮に倣って虹の影も櫂を下ろす。二つの舟は並行世界に漂いながら白い霧に躰を委ねる。より濃い霧が覆いかかって銀の舟を沈ませる。亮の意識が霧の中へと落ちてゆく。
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