Acte 13(虹の影 ~Jardin d'iris~)

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 コックコートに着替えて、厨房へ。職人は東京からの協力助っ人、蔭川の他に男性一人と地元採用の女性二人、厨房外のカウンターには三國屋さんという女性の人、父は事務室にでもいるのだろうか、厨房を一時離れている。平日なので客数は少なく、ある程度の仕事は終わっている。翌日の生地の仕込みに器具の後片付けを手早く済ます。時間が余ったので、こういうときこそ自主練習、蔭川相手に絞りの指導をお願いした。  絞りにはホットメレンゲというものを使用する。卵白に砂糖を入れて湯煎をして泡立てた、ごく単純なクリームだ。卵白は店で大量に余るから、練習材料には丁度いい。絞り口はサントノーレの尖った口金で、黒鉄板に白い山並みをにゅっと出す。山から尻尾が細く伸びて、山裾がぽってり広がる形はさながら海で泳ぐ白いエイだ。絞りのテンポをリズムよく、一定の力加減で、黒い鉄板に白いエイを何匹も泳がせた。エイの群れの先頭が徐々にズレてくる。ああ、尻尾が捻じ曲がった。クソッ、まだまだ技術が足りてない。 「菓子の専門学校でも、こういうことをするんですよね?」と、五匹目のエイを絞り出しながら蔭川に問いかけた。  うん、と、蔭川は頷いた。長い手袋を付けて、腕全体を使いながら、ボウルに入れた白い生地を懸命に練っている。地元の和菓子屋とコラボした、どら焼き生地を準備しているようだ。 「絞りの練習はたくさんするよ。ロザーズっていう、星口金で作るバラの形ね、あれを時間内に何個作れるかって競争したこともあったなあ。懐かしいなあ」  遠い目をする蔭川はいつものように顔が青白いが、こちらへ来てから少し血色が良くなった。若干太ったような気もする。地元方言の影響を受けたからか、イントネーションには妙な抑揚ができていた。もしかすると彼女ができたんじゃないかって、三國屋さんが嬉しそうに喋っていたっけ。蔭川さんを好きになる女の人って、いったいどんな人なんだ? 「親父……オーナーがね」と、いらぬ妄想に口が滑った。手も滑って六匹目のエイの頭に瘤ができた。「専門学校には行くなって言うんですよ。お金も掛かるし、近くの大学へ行きながらここで働けば十分だって、どうしても許してくれなくて」  一発奮起で意気揚々と転校したのはいいものの、いざ現実となるとそのハードルの高さに目を剥いた。とにかく学費だ、学費が高い。一年で二百万、二年だと四百万。教科書や資格取得といった諸々とした費用も嵩んでくる。積み立てておいた学資保険もあるにはあるが、その用途を専門学校に全額当てしまうのもどうなのだろうと、父は渋い顔を変えようとしない。
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