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私の世界
光を感じる。
部屋の中に充満した薄くて優しい光が、朝の訪れを教えてくれた。2LDKのマンションは、一人暮らしの私には少し広い。静まり返った我が家には無機質な空気が漂っていて、なんだか落ち着かない。ここは自分の家なのに。
重たいまぶたをこじ開けながらベッドから抜け出し、よたよたと窓に近づいて一気にカーテンを開けるとたくさんの光が部屋に差し込んだ。ああ、温かい。日差しを浴びると心が少し落ち着いた。外は雲ひとつない空が広がっている。今日は快晴のようだ。
こんなに天気の良い日には外で仕事をするに限る。私はトーストとコーヒーのシンプルな朝食をとり、簡単に身支度を済ませると、真っ白のキャンバスとイーゼルと鞄を抱えて家を出た。今日はそうだな、少し遠いけれど河川敷まで行ってみようと思う。
空を見上げながら歩いているとなんだか楽しい気分になってきた。どんどん足取りが軽やかになり、だんだん歩幅が広くなっていく。今日はとってもいい日になりそうな気がする。
河川敷に着くと、私はいつもの木陰に荷物を下ろして絵を描く準備を始める。イーゼルを立ててキャンバスを設置し、絵の具を用意する。今日は春の晴天とその下に広がる芝生を描こう。私はわくわくしながら筆を滑らせる。
「今の姉ちゃんには世界がそう見えるのかい?」
半分ほど描き上がった時、突然後ろから声をかけられた。振り向くと黒いぼろぼろのコートを羽織ったおじいさんが立っていた。野球帽がよく似合うそのおじいさんは、少し離れたところから私の描く絵を不思議そうに眺めている。
「はい、私にはこの絵みたいに見えるんです」
私は笑顔で答える。
「おれにはもっとあたたかい色の景色に見えるけどなあ。そっか、そういうこともあるんだな。でも、姉ちゃんの絵、本当に綺麗だなあ。なんだか見入っちまうよ」
「あら、嬉しい感想。褒めてくださりありがとうございます」
「いやいや、こっちこそいい物見せてくれてありがとうな」
温かい笑顔で頭を下げて、おじいさんはゆっくり去っていった。そういえば随分前にも声をかけてもらったような気がする。いや、気のせいかもしれない。私は人の顔を覚えるのがかなり苦手だ。
黙々と私は絵を仕上げにかかる。カバンの中から水筒を取り出し、冷たい麦茶を飲む。春といっても冷たい麦茶は失敗だったかもしれない。少し、いや、割と寒い。次にここに来る時は温かいお茶かコーヒーにしよう。そんなことを考えながら私は再び絵に取り掛かる。
描き上がった絵を見る。満足のいく出来ではないが、全く納得ができないということもない。まあまあといったところか。
周りを見ると知らないうちに夕方になっていた。沈んでいく夕日が眩しい。キラキラと反射する川面はなんだか笑っているように見える。暫く川面を眺めてから、私は帰り支度を始めた。私のパレットに出ていた絵の具はいつも通り黒と白の二色だけだ。
私の世界はモノクローム。とってもシンプルな白と黒の世界で、鮮やかな色は一つもない。いや、今はないと言ったほうが正しいか。私の世界はある日を境に色を失った。きっかけはわかっている。大好きな旦那の死だ。
旦那とは大学時代に知り合った。そして、社会人になって五年目の春に結婚した。今の家に引っ越してきたのは三年前で、旦那が死んだのが一年と少し前。
私は旦那が大好きだった。でも、大好きな旦那は交通事故で死んだ。入院した病院で、事故にあった一ヶ月後に。
旦那の死が受け入れられず、私は三ヶ月間泣き続けた。その次の三ヶ月間はぼんやりとただただ日々を過ごし、この頃から自分の家がよそよそしく感じるようになった。
旦那が死んで半年後、私は自分の世界から色がなくなっていることに気がついた。旦那は私にとっての光であり、光のない世界には色がないのは当然だった。
旦那の死後、私は貯金を切り崩しながら生活していたが、それもだんだんと厳しくなっていった。仕方がないので、私は少しずつ絵描きとしての仕事を再開することにした。でも、私の描く絵は以前と違うものになっていた。絵からも色が消えていたのだ。
考えてみたら当たり前の話だった。だって今の私にはどの色もモノクロに見えるんだもの。最初、私の周りはかなり騒ついた。それから心配もされた。私が描く風景画は鮮やかな色味が特徴だったから。
しかし、モノクロの絵もこれはこれで美しいと評価されて、なんとか食い繋ぐことができている。本当にありがたい話だ。
私はこのモノクロの世界が嫌いじゃない。たまに味気なく思うこともあるけれど、モノクロの世界でも美しい物はやはり美しい。慣れてしまえば何も不便なことはない。
河川敷から家に帰る。私一人には広すぎる我が家へ。家に上がる前に何気なくポストを開けると、封筒が一つ入っていた。差出人は旦那の名前。
旦那の名前。
私は急いで家に上がり、封筒の封を切った。封筒の中には一枚の手紙と鍵が一つ。手紙には見覚えのある住所が書かれていた。学生時代に旦那が住んでいた、賃貸マンションの住所が。
字は旦那の字だった。自信を持って言える、これは旦那の字だと。だって旦那の書く字はカクカクしていて癖が強いのだ。私は悩んだけれど、手紙と鍵を握りしめてそのまま家を飛び出した。
我が家の最寄駅から電車で二十分ほど行ったところにある、ありきたりな閑静な住宅街。その中に旦那が昔住んでいた家がある。学生時代に何度も遊びに行ったワンルームマンション。もう最後に行ってから十年以上経っているが場所はなんとなく覚えていた。
マンションに着くと、今更だけど少し不安になった。ポケットから届いた鍵を出して、躊躇いながら刺してみる。そっと回すと、ガチャリという音ともに鍵が外れた。すっと背筋が伸びる。
ドアを開けると家の中から懐かしい匂いがした。旦那が住んでいたのはもう何年も前なのに、なんだか笑ってしまいそうになる。でも、本当に懐かしい匂いがする。試しに電気のスイッチを押してみるとパッと部屋が明るくなった。電気が通っていた。
「あ……」
思わず声が漏れた。廊下の真ん中に封筒が一つ置いてあった。勇気を出して靴を脱ぎ、封筒を手に取る。中には手紙が入っていた。
この手紙を読んでいる頃、僕はこの世にいない。ごめんな。きっと玲奈の事だから僕が死んだら落ち込んでくれる気がするんだ。そうだね、なんとなく一年ぐらいは冷静じゃないと思うな、根拠はないけどね(笑)
今も引っ越さずに同じマンションに住んでるんじゃない? 一人じゃ広いでしょ、今の家。そんな気がして僕が学生時代に住んでいた家を借りてみました!
びっくりしたでしょう? へそくりを使って、見舞いに来てくれた母さんに無理言って協力してもらってさ、二年分の契約をしてもらったんだ。もちろん家賃は払ってある。大家さんも快諾してくれたよ。昔住んでいた時に仲良くなっていてよかった。
もし玲奈が良ければこっちに引っ越して来ないかい? 広い家に一人でいるよりこっちの方が毎日楽しい気がするよ。あ、もちろん嫌なら大丈夫。ここに住まなくてもいいからね。あと、ここに住んでもいつ出て行ってもいいから。玲奈には新しい恋もしてほしいからさ。あ、駄目だ想像したらモヤモヤしてきた……
まあ引っ越しについてちょっと考えてみてよ。
最後に、玲奈お誕生日おめでとう。これが僕からの最後の誕生日プレゼントです。
涙が溢れた。そうだ、今日は私の誕生日だったんだ。もう立ち直ったつもりだったけれど、自分の誕生日を忘れていたなんて。どうやら私は自分が思っていた以上に引きずっていたらしい。
もう旦那はこの世にいない。でも、この部屋は私を温かく迎え入れてくれた気がする。今の家よりもずっと居心地がいい。今の私にはこの部屋が必要な気がする。うん、引っ越そう。早いうちにここに住もう。私は強く心に決めた。
帰宅後、私は昨日の夕飯の残りで簡単に食事を済ませた。いつもなら食後にダラダラとリビングでくつろぐけれど、今日はすぐに洗い物をして風呂に入り気合を入れた。
「さて、やるか!」
旦那の前の家に行ってから、ずっと絵が描きたい衝動にかられていた。モチーフなんてなんでもいい、思いつきでいいからとにかく何かを描きたくなった。私は窓辺にイーゼルとキャンバスを置き、ふと窓の外の景色を見た。よし、この景色を描こう。
なんだろう、いつも見ている景色なのに、なんだか今はとても鮮やかに見える。月の光が私を温かく照らす。夜の景色に温かみを感じる。
気付けば私は笑顔で筆を滑らせていた。河川敷で絵を描いていた時よりも、ずっとわくわくした。そうだった、絵を描くのってこんなに楽しい事だった。私は久しぶりにそのことを思い出した。
その時は気づかなかった。私が何色の絵の具を使って絵を描いているのかを。それぐらい無我夢中で描いていた。
たくさんの種類の絵の具を使い、色鮮やかな絵を自分が描いた事に気がついたのは、絵が描き上がった翌朝のことだった。いつの間にか私の世界に色が戻っていた。
私の世界は再び美しく彩られていた。まるで鮮やかな絵画のように。
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