第一話・シングルマザー瑞希

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第一話・シングルマザー瑞希

 イベント続きで慌ただしかったゴールデンウイークも終わり、徐々に暖かく過ごしやすい日が増えてきた季節。自転車のジュニアシートから子供を抱き下ろし、瑞希は拓也に被せていたヘルメットを外した。自宅から保育園までの短い移動時間だけでも、子供の髪はしっとりと汗ばんでしまっている。 「今日は何して遊べるのかな? 楽しみだねー」 「ぶっぶ!」 「ぶっぶ? そっかー、保育園も車の玩具、いっぱいあるもんね。いいねー」  声を掛けながら我が子を抱き上げ、子供用の小さな通園鞄とお昼寝布団、着替え袋を肩に掛ける。そこまで重くはないけれど、荷物で足元が全く見えなくなるし、正直言って歩きにくい。保育園の駐輪場で出会った保護者も皆、同じように大荷物を抱えている。  月曜の朝は特に荷物が嵩張るから大変だ。オムツが外れたらもう少し荷物も減るのだろうが、1才半でまだトイレトレーニングを始めたばかりの拓也には遠い話だ。小さな背に通園鞄を背負い、親と手を繋いで歩いている大きい組の園児のことを瑞希は目を細めて眺める。こうやって抱っこで登園するのも、今の内だけだ。  大荷物でふらつきそうになるのを踏ん張って、どうにか教室の前に辿り着けば、後は先生にお任せ――という訳にもいかない。世の中そこまで甘くできてはいない。  指定された棚に持って来た物を順に片付けて行き、換えのオムツを入れたビニール袋をトイレのフックに引っ掛けた。朝の用意が終わったら、子供と一緒にお帳面に出席シールを貼っていく。園で決められた朝の準備を全てこなさないと、この場から立ち去ることは許されない。  帰りもまた同じように荷物を回収して回らないといけないし、お迎え時には丸一日分の使用済オムツで一杯になったゴミ袋も待っているのだ。園によってはオムツはまとめて処分してくれるところもあるらしいが、拓也の通う保育園は衛生上の何たらで保護者が持ち帰る決まりだった。  一通りの朝の準備が済むと、子供が気付いていない内にさっと教室を出る。見つかってしまうと大泣きされるのが目に見えているからだ。万が一、泣かれてしまった時も優しく宥めている時間はないし、保育士さんに丸投げして逃げるように去るしかない。後ろ髪を引かれるとかいう悠長なことも言ってられないほど、瑞希には余裕はない。  ――やばい、急がなきゃっ!  駐輪場で自転車に飛び乗ると、勤務先を目指して猛ダッシュする。いつも朝礼に間に合うギリギリの時間になってしまうので、店で着替えている時間すら惜しい。いつの間にか、制服のまま通勤してしまうようになった。  小綺麗な私服姿で送迎してくる他の保護者を羨ましがってる余裕なんて勿論無い。  拓也の通う保育園からは自転車で20分のところにあるショッピングモールの中に、瑞希の職場はある。1階の隅にテナントとして入っている携帯電話のキャリアショップ。拓也を出産してから今の店に勤めるようになって、丁度1年が経とうとしていた。 「今月は実績給2倍月です。気合い入れて売って行きましょう」 「「よろしくお願いします」」  店内の簡単な清掃後、代わり映えのしない朝礼が終わると、各自が思い思いに動き出す。前日にやり残した仕事の続きをし始める者、新たに届いているメールやFAXを確認する者、煙草を吸いに喫煙室に消えていく者。  同じ職場にいても、始業前のルーティーンは人それぞれだ。今日みたいな普通の日は特に。  新機種の発売や予約開始日でもない限り、平日に朝一で店の前に行列が出来ることはほとんどない。特にこんな奥まったところにある店は、開店時間が過ぎてもしばらくは閑散としているのが常。 「実績給2倍ってことは、店長から横取りされる売上も2倍ってことか……」  隣のカウンターに座った、同僚の西川恵美がはぁっとワザとらしく溜息を付いてみせた。ショートボブのサイドの髪を耳に掛けて、きっちりと横に流した前髪。マナー研修で合格点を貰える店員のお手本のような見た目に反し、眉を寄せて露骨な嫌悪を現わしているのが何とも言えない。それに対しては何も言わず、瑞希は半笑いを浮かべて同意する。  いま勤めている代理店は個人売上の1%を実績給として給料に還元して貰える。と言っても、携帯電話を新規で1台販売できても数十円にしかならないし、還元されるにも最低基準という名の下限もある。基準以上の売上の無い月は1円も貰えない。世の中は世知辛い。  そしてさらに、半年前から転任してきた吉崎店長は露骨に売上を横取りしてくるタイプだ。自分が住所変更などの簡単な手続きを受けている横で、他のスタッフが新規の可能性のある客を接客していれば、すっと移動して来て強制的に受付を交代させ、新規販売を自分の手柄にしてしまうのだ。 「繁忙店に戻りたくて、店長も必死なんだよ」 「普段は煙草ばっか吸ってて、何もしないくせにね」  転任当初は若くてイケメンだと騒いでいた女性スタッフ達も、今では誰も彼のことを支持してはいない。いくら顔が良くても実績が伴わなければ、誰も付いてはいかない。瑞希自身も、こんなにボロくそに言われているイケメンを初めて見たし、過去最高に仕事の出来ない上司だと思っている。  週明けで納品も無く、午前中は本社へ送る書類の準備をする時間もあったが、午後からは修理受付の来店が重なった。ゲリラ豪雨的な雨が降った翌日は、水没が原因の客が増える。店においている代替機の台数が心配になる程ではなかったが、修理センターへの発送待ちのケースはいっぱいになってしまった。それらを明日の朝一には出せるように準備をし終えた時、ようやく営業時間が終わった。 「台数、全然だったけど、めちゃくちゃ忙しかったー。瑞希はこれからお迎え?」 「うん。今日はギリギリ延長がつかなさそうで良かったわ」  看板類を片付けると、バックヤードで私服に着替え終えた恵美と並んで、店を出る。イケメン店長は社用PCで他店の売上実績をチェックしていたので、まだ帰りそうもない。  ショップの閉店時間は19時だが、ショッピングモール自体が閉まるのは21時。なので19時を過ぎても客足が無くならない日もある。子供を預けている保育園は20時を過ぎると延長料金が発生するから、どんなに遅くても19時半には店を出たいのが本音。 「子持ちには定時で帰らせようとか、そういう優しさは無いのか、あの店長は」 「吉崎店長、まだ若いから」 「でもさ、延長料金って自腹なんでしょう?」 「……まあね、仕方ないよ。会社はそこまでは持ってくれないしね」  以前に居た店長は妻子持ちだったから、そういう気遣いにはとても長けていた。でも、シングルマザーを理由に特別扱いされるのも居心地が良くないと、瑞希なりにギリギリまで残るようにはしていた。店長が変わっても、最後まで仕事は終えてから退勤したいと、毎日閉店時間前はバタバタだ。  ただ、延長料金が付く時間までの残業だけは勘弁して欲しいのが本音だ。実家にも頼れず、女手一つで子供を育てている身としては、余計な支出は増やしたくないのだ。
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