第十話・子供服とシフト

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第十話・子供服とシフト

 結局、伸也が用意してくれた社宅への引っ越しどころか、認知のことすら決められず、「会社の状況も把握している人に、客観的な意見を聞いてみて欲しい」とだけ伝えて、瑞希はとりあえず全てを先送りにしてしまった。決断することで、今までの生活ががらりと変わってしまう気がして、少し怖かった。  そう言われて寂しそうにしていた伸也だったが、少し考えた後に「分かった」と頷いていた。彼自身も自分の置かれている立場についてはきちんと把握しているし、今の事情を話せる相手は限られるが、少なからず誰かには相談できるようだ。  秘書の鴨井の運転する車で送って貰い、いつものこじんまりした年季の入ったアパートに戻ると、その狭さと古さが際立って見えた。一気に現実に引き戻された感がすごい。築浅のファミリー向けのマンションは、正直言ってとても魅力的だった。  駅からの距離もあり、空き家の目立つ古い家ばかりが建つこの地区は、静かだけれどそれだけだ。いろんな条件を妥協して、家賃だけを優先した結果のボロ物件。その日焼けした天井を見上げて、瑞希は大きく溜息を付いた。  KAJIコーポレーションの子会社で一般社員として働いていた頃の伸也なら、何の迷いもなく一緒に居られただろう。まだ婚約すらしていなかったけれど、妊娠したと言えば焦りつつも喜んでくれただろうし、緊張しながら瑞希の家に挨拶に来てくれたかもしれない。  両親だって、順番が逆だと言いつつも、初孫の誕生を楽しみにしてくれたかもしれないし、たくさんの人に祝福してもらえたのだろう。  人生の歯車が狂うという言葉があるが、瑞希の場合は2年前に歯車の一つが目の前から消えてしまった。互いに円滑に回っていた物が、一つの歯車が消えたことでガタガタとズレた回り方をし始め、その挙句に動きを止めてしまった。  その後もなんとか踏ん張っていると、小さな歯車が小さい回転をし始め、その動きを見守ることだけを心の支えに生きてきた。  その小さな歯車と、消えていたはずの歯車の回転を、血の繋がりだけで安易に重ねていいものかどうかが分からない。  帰宅してすぐにお風呂に入れ、まだ目の冴えている内に急いで夕ご飯にしたつもりだったが、よっぽど疲れたのか拓也は食べている最中にうつらうつらし始め、半分も食べずに眠ってしまった。  予想以上に早く一人時間の確保に成功した瑞希は、いつもと同じように翌日の登園準備をし終えると、拓也用の衣装ケースを開けて秋冬物を選り分けていく。落ち着いて衣替えの作業が出来るこの時間は貴重だ。本当はもっと前にやっておきたかったが、拓也が起きているとなかなか時間が取れない。その一枚一枚のサイズを確認しながら、来秋には着れなくなりそうな物はゴミ袋にまとめる。 「拓也、大きくなったね……」  子供布団で眠っている我が子の寝顔を見ながら、処分するつもりの洋服を着ていた時のことを思い浮かべる。これを着ていた時の拓也のことを、伸也は父親なのに知らないのだ。離れて過ごしていた時間は取り戻すことはできない。  翌朝もまた、いつもと変わらず保育園とショップの間をママチャリの立ち漕ぎで走り抜け、朝礼にはギリギリで間に合うことができた。前日の数字を読み上げるだけのいつも通りの朝礼の最後に、7月のシフト表がその場の全員に配られた。A4のコピー用紙に印字された細かいスケジュールを一斉に眺める。 「え……」  受け取った紙を見て、瑞希はその場で固まってしまう。自分の名前が記載された欄を目で追っていき、その勤務予定日を確認していく。 「来月は店舗のイベントと、モールのイベントが重なっている為、土日に人員を集中させています。なのでその分、平日がかなり薄くなっているので、各自そのつもりでいてください」  これまでは平日も満遍なく人員を確保する為、土日にも誰かしらの公休が入れられていた。けれど店長からの説明通り、来月は全社員が土日勤務で、希望を出していたバイトスタッフくらいしか休みになっていない。 「瑞希、大丈夫?」 「ううん、全然大丈夫じゃないわ。一時保育代で確実に死ぬ……」  いつも拓也を預けている保育園は認可保育所で、基本的には平日保育。希望者のみ別の申請書を出すことで土曜も預かって貰える。給食は平日のみなので土曜に預ける時はお弁当を用意しなければならない。  曜日関係なしのサービス業などだと、月曜から土曜はいつもの保育園で、日曜だけは実家などにお願いしたり、必要に応じて認可外などの日曜の一時保育を受けているところに預けるしかない。  当然、瑞希には頼れる実家なんて存在しない。日曜にシフトが入っていれば、家からも店からもさらに遠い認可外の一時保育を前もって予約しておいて、毎回日払いで保育料を支払って子供を預かって貰っている。  通常の保育料は母子家庭ということもあって補助も大きく負担は少ない。けれど一時保育はそういった補助もなく、まだ1才の拓也を預けると瑞希の日給額とほぼ同額に近い金額が必要になってくる。  なのでこれまでは土曜の休みがあれば日曜の人と交代して貰ったりして、出来る限り一時保育の利用を最小限にしてきたのだが……今回は全社員が土日勤務だ。代わって貰える人が誰もいない。 「来月は5日間もただ働きかぁ……」  5日分の一時保育料を払うとなると、正社員ではなくパートで時給換算で働いている方が月収は高くなる。何というか、世知辛い。 「ちょ、田上さん、来月は平日もエグイですよ……私、店長と新人バイト君と三人って日あるんですよー」  若手スタッフの木下七海がシフトの紙をバンバン叩きながら、7月下旬の日付を指差している。恵美と二人で、それぞれのシフト表に目をやり、「あー」と短く嘆きの声で同調する。 「これはキツイ……」 「でしょ? 私、この日は休憩は取れないものと思っときます」  カウンターの後ろで社用PCで一日中遊んでる店長と、接客よりも呼び込みがメインな学生バイト君という、頼りないコンビ。 「これ、まともに閉め作業できるの、木下さんだけじゃない」 「平日って言っても、思いっきり夏休みに入ってるの気付いてないシフトだね」  隅っこと言ってもショッピングモール内の店舗だ、学校の長期休暇に入れば客足は一気に増えるし、平日でもそこそこ忙しくなる。そこまでは気付いて無かった木下はさらに大きく項垂れていた。「エグイ、エグイ」と呪文のように唱えている。 「何も予定なかったら、様子見に来るようにするから」 「私も。予定入れないように気をつけるわ。でも、それまでにバイト君を使えるように教育するのが先だね」 「彼、結構しっかりしてるし、きっと大丈夫だって!」  恵美と二人で宥めつつ、同じパターンの日が自分にも無いかを確かめる。何日かは怪しそうな組み合わせの日もあったが、まあ何とか乗り切れるだろうか。
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