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第十五話・お屋敷での面会2
前社長が亡くなった後も会合に使用されることがあるという応接室は、大きなソファーテーブルを囲むように長いソファーが設置されていた。ゆったりと十人以上が腰掛けられそうなL字形の大型ソファーに身を預けながら、瑞希は伸也達のやり取りを黙って聞いているくらいしかできなかった。
紅茶の入ったカップをソーサーに戻すと、百合子はそれに視線を落としたまま眉を寄せている。社内での伸也の立場と、瑞希達の置かれている状況を照らし合わせ、最善の方法はないかと考えを巡らせていた。
「常務の神崎は、伸也と娘との婚姻を目論んで、あなたを後継者に担ぎ上げたのよ。だから、娘のことが使えない状況になれば――分かるわよね?」
社長派の筆頭である常務が離れていくとなると、伸也の社内での立場は危うい。就任したばかりの伸也にはまだ何の実績も基盤もなく、常務達の後ろ盾がなければいつその椅子を奪われるかも分からない。そんな時に隠し子の存在が発覚してしまうとなれば騒動になるのは確実だ。
「神崎より前に手を打ちなさい。揚げ足を取られる前に地盤を固めなさい。離れて敵になろうとする前に、封じ込めてしまいなさい」
その為にまずすべきことはと続け、百合子は瑞希の方を向く。
「まずは認知の手続きを急いで終わらせなさい。そのまま放置は何よりもマズイわ。その後、瑞希さんの実家に話を通しに行くのよ。田上ではなく、相沢の方よ」
養子先である母方の祖父母ではなく、妊娠発覚と同時にきっぱりと縁を切ってきた実父母。そう易々と会う算段をつけてくれるとは思えない。横で聞いていた瑞希は表情を曇らせる。
「世間体を気にして娘を放り出すような親なら、あなた達では話にならないかもしれないわね。会社の看板を使って、鴨井に任せるといいわ」
瑞希達の言うことには聞く耳を持たずとも、KAJIコーポレーションの名と社長秘書の肩書を掲げて鴨井が前に出れば、流れが変わる可能性はある。未婚の娘の妊娠で世間の目を気にした挙句に親子関係の断絶を計るような両親だ、大きな看板と肩書には弱い。個人ではなく会社として動いた方が上手くいくはずだ。
心得ましたとばかりに、鴨井は部屋の隅で大きく頷いている。
ジュースを一気に飲み干してお腹がいっぱいになってしまったのか、瑞希の膝に頭を乗せて、拓也は小さな寝息を立てていた。その背をトントンと優しく叩きながら、瑞希は両親に妊娠を伝えた時のことを思い出し、顔を強張らせた。
未婚の内の妊娠と、相手の行方が分からず連絡も付かないという絶望的な状況。それを聞かされた時の父は恥さらしと瑞希に向かって怒鳴り散らし、母は顔を青褪めた後、静かに泣いていた。
そして翌日には、「お前みたいな娘は我が家には元から居ない。もう相沢の名も名乗るな」と母方の祖父母との養子縁組を強要してきた。
「大丈夫、俺も一緒に行くから」
ソファーに座ったまま、伸也は瑞希の腰に手を回し、ぎゅっと自分の方へ引き寄せる。2年前に自分が原因で崩壊させてしまった瑞希の家族。瑞希と拓也を守る為に、出来る限りのことをしようと心に決める。
「ふふふ、伸也は寝てる時はいつも口をぽかんって開けてたけど、この子はお行儀がいいわね。そこは瑞希さんの方に似たのかしら」
全てが伸也の子供の頃のままという訳ではない、ちょっとした違いが不思議だった。これが孫というものなのかと、百合子は眠る拓也の顔を覗いた。
「会社のことしか頭に無かったせいで、生まれたばかりの初孫の顔が見られなかったなんて、自分自身が情けないわ」
「写真なら、少しですけど……」
立ち上がれない瑞希に代わって伸也にマザーズバッグの外ポケットからスマホを取り出して貰うと、写真のフォルダから産後すぐの拓也を探して百合子に見せる。
黙って写真を順に確認していく百合子の目が潤んでいるように見えたのは、決して照明の加減なんかではない。
「この部屋にプリンターは無かったかしら?」
「ございます。wifiの設定いただければ、すぐ印刷もしていただけます」
「少しでいいから、印刷してもらえる? 帰って主人にも見せたいわ」
秘書から渡されたパスワードのメモを見ながらwifiを有効にすると、瑞希は伸也と相談しながら拓也が可愛く写っている物を中心に5枚ほど選ぶ。すぐに壁面の棚に置かれたインクジェットプリンターが静かに動き出す。印刷を終えた写真を秘書から受け取ると、百合子はほうっと溜息をついた。
「可愛いわね……」
この可愛い孫とその母親に、本来はさせなくても良い苦労を強いた罪は深い。それは相沢の両親も同罪だ。互いに後悔しあう未来が来ることを願うばかりだ。
眠り続ける拓也をそのままチャイルドシートに座らせると、秘書の運転する車の後部座席に伸也と並んで乗り込んだ。屋敷を出る前に改めて百合子から頭を下げられたことで、瑞希はわだかまりを覚えずに済んだ気がした。かつてはKAJIの女帝とも呼ばれたという彼女に非を認めて貰えた事の重大さくらいは分かっている。
来た時の敵意に満ちた瞳の色は消え失せ、今は優しい祖母の微笑みを浮かべて、車が門を出て行くのを見送ってくれていた。
一度アパートに戻ってもらい、記入済みの認知届けを取って来て、鴨井の運転する車は瑞希達を乗せてそのまま市役所へと向かった。勿論、拓也の父親の欄に伸也の名を追加して貰う為だが、戸籍という公的な物で三人が初めて繋がりを持った瞬間に、じんと胸が熱くなるのを感じた。
「これで、拓也にもパパって名乗っていいんだよね?」
「もしかして、気にしてた?」
「まぁ、ちょっとね……」
認知と同様に駅前マンションへの引っ越しも急ぐように指示されたが、そちらの方は保育園の転園手続きが先だ。ついでに市役所の保育課で手続きはしてきたが、転園の決定通知が来るのを待つ必要がある。世間に発覚した時に今の部屋では、KAJIコーポレーションのCEOの子供の住居として相応しくない、無責任な父親だと非難される可能性すらある、というのが百合子の意見だった。
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