第二十話・引っ越し準備

1/1
前へ
/67ページ
次へ

第二十話・引っ越し準備

 拓也の知恵熱のような発熱も治まったようなので、翌日の休みはのんびりと荷物の整理に費やしていた。床にたくさんの物を広げていく瑞希の横で、クローゼットの奥から出て来た赤ちゃん用の玩具を見つけると、拓也は興味津々でボタンを押して、流れるオルゴールの音に合わせて手を叩いている。  スーツケース1個だけを持って実家を出てから、随分と荷物が増えた。あの頃はまだお腹の中に居て、モノクロのエコー写真でしか存在を確認できなかった拓也も、もう少しで2才の誕生日を迎えようとしている。まだまだお喋りは少ないが、動作や表情でいろんなことを伝えられるようになってきた。  仕事上のコネでも使ったのか、伸也から引っ越し業者の手配ができたというメールが朝一で届いていた。お任せフルパックとかいうやつで、荷造りから荷解きまで全てやって貰え、伸也に預けた合鍵を使って瑞希の仕事中に全てを終わらせてくれるらしい。  ――一体、いくらかかるの、それ……。絶対、高いし。  気になってネットで検索してみて、その料金に心臓が止まりそうになった。その金額を出すなら、荷物は全部捨てていって、手ぶらで引っ越した方がマシなんじゃないかと思ったくらいだ。  そんな贅沢なサービスをこのボロアパートの住人が使っていいものかと正直言って躊躇う。引っ越し前後の部屋のギャップが凄くて、依頼された側も反応に困ることだろう。  大事な物や見られたくない物は自力で持ち運んだ方が良いみたいだが、通帳や保険証といった貴重品以外には大した物はない。それらを普段使いの鞄に除けて、後は持って行く予定の無いものをまとめてゴミ袋に放り込んでいく。廃棄物の処分も引っ越し業者が請け負ってくれるらしく、邪魔にならないようにまとめてベランダに積み上げておく。不要な物なんて何もないと思っていたけれど、意外とあったことに驚いた。その大半は拓也の月齢に合わない服や玩具だったけれど。  引っ越し先の家具家電を使うことを考え、持って行かない家電の引き取り先をスマホで検索する。即日買い取りに来てくれるリサイクルショップを見つけて連絡し、夕方に約束を取り付けた。  元から何もない部屋だったので、作業はあっという間に終わってしまった。急な退去の連絡に家主も驚いてはいたが、翌月分の家賃は引き落とし済だったので、それが最後ということになった。「鍵は不動産屋さんに返しておいて」と、出て行く時の手続きは呆気ない。  ――明日の朝はこのアパートを出て、駅前のマンションに帰るんだ。疲れてぼーっとしてたら間違えてここに戻って来てしまいそうだし、注意しないと……。  片付けのメドが立つと、少し早めに夕食の支度に取り掛かった。洗濯機と一緒に冷蔵庫もリサイクルショップに買い取って貰うつもりなので、中に入ってる食材を無理して使い切ろうとしたら、何だか具沢山過ぎるスープが出来上がった。  無理矢理に空にした冷蔵庫の中を拭いていると、玄関のチャイムが鳴る。キッチン横の窓から覗くと、約束の時間より20分ほど早かったが、アパートの前にはリサイクルショップの軽トラが停まっているのが見えた。 「宇野リサイクルです。家電の査定に伺いましたー」  玄関先に立っていた店名入りのキャップとTシャツを着た男は、胸ポケットからメモ帳を取り出して依頼内容を改めて確認していく。あらかたは電話で説明してあるので、あとは実物を見てもらうだけだ。 「洗濯機と冷蔵庫、電子レンジの引き取りって聞いてますが、見せて貰っていいですか?」 「あ、どーぞ。お願いします」 「年式によっては買い取りできなくて、反対にリサイクル料を頂かないといけないこともあるんで」  持参したスリッパを出して上がり込んだリサイクル屋の為に、洗面所のドアを開け放しにする。それぞれの製造年式をチェックしていく様子を、子供と一緒に遠巻きに見守った。  手持ちしていたファイルで型番をチェックして、スマホの電卓アプリを使って査定額を計算しているようだった。アナログなのかどうなのか、その辺りの判断が難しい。 「どちらも買い取りできるギリギリの年式なんで、これが精一杯ですね」  提示された電卓の数字は、1350円。なかなか厳しい買い取り額。でも、リサイクル料を支払って処分することを思えば断る理由がない。  元々、全て2年前にリサイクルショップで叩き売りされてた物だったから、査定に通ったのは奇跡だ。ダメだった場合は引っ越し業者に処分依頼するつもりでいたのだから。  差し出された買取り伝票にサインをすると、リサイクル屋が驚きが隠せない顔で瑞希のことを見ていた。 「え、相沢さんって、相沢さん?」  改めて名前を繰り返され、電話でも名乗ったはずなのに一体何だと、瑞希はきょとんとして男の顔を見上げた。リサイクルショップのロゴ入りのキャップの下の日に焼けた顔は、自分と同じ二十代後半といったところか。目を丸くしてこちらを見ているその男のことは、言われてみれば見覚えがあった。 「あれ? 山本君だっ」 「やっぱ、相沢さんかぁ。似てるなーとは思ったんだけど、結婚したって噂は聞いてないのに子供がいるしさ……あ、ごめん」  勢い余って滑った口を慌てて抑える。地元の中学で一緒だったけれど、会話した記憶のない同級生は申し訳なさそうに頭を掻いていた。中学の3年間で一度だけ同じクラスになったはずだが、何年生の時のことだったかすら思い出せない。 「引っ越し?」 「うん、明日ね。新しい家には家電とか全部あるから、買い取って貰えて助かったよ」  久しぶりに再会した同級生がボロアパートのまともな家具もない一室で子供と二人で住んでいる光景に、山本からすればこの上なく気まずかっただろう。型落ちの型落ちのような古ぼけた冷蔵庫と洗濯機、電子レンジを軽トラに積み上げると、元野球部のエースは「ま、頑張れよ」と片手を挙げてから運転席へと乗り込んでいった。  ――何か、気を使わせちゃったみたいだね……。  サービスだと言って大量に貰ってしまったポケットティッシュを、クローゼットの引き出しにしまい込む。  冷蔵庫とレンジが無くなると、狭かったはずのキッチンスペースが急に広く感じる。冷蔵庫を置いていた場所の埃を雑巾で拭いていると、この部屋を出る実感がじわじわと湧いてきた。  2年前の瑞希にとって、この部屋を借りることさえ精一杯だった。傷だらけのフローリングと日焼けして色褪せた壁紙。子供を抱き、スーツケースを引き摺りながら辿り着いたここで、何度涙を堪えただろうか。
/67ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2989人が本棚に入れています
本棚に追加