第二十三話・ベビーシッター

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第二十三話・ベビーシッター

 21時半になり、ベビーシッターとの打ち合わせ時間が来ても拓也に起きる気配はない。このままでは完全に初対面のままでいきなり預けることになってしまうから、起こした方が良いのかと悩む。  社長秘書が手配してくれたベビーシッターは、有資格者だけが登録できる会社からの派遣だった。時間きっかりにやって来た小澤祥子は保育士の資格を持つ40才で、保育園での勤務経験もあるらしい。軽やかなショートヘアが若々しく、子供達と一緒に園庭を走り回っている姿が容易に想像できそうな女性だ。今日着ているライトグレーのスーツよりも、パステルカラーのエプロンの方が絶対に似合うはず。 「こんな遅い時間にお呼びしてしまって」 「いえ、大丈夫です。通常はこのくらいの時間にお戻りになられるんでしょうか?」  ハキハキとした話し方は、まさに保育園のベテランの先生といった雰囲気で安心感があり、子供受けも良さそうだ。 「今日は今まで通っていた園へ迎えに行って遅くなってしまっただけで、職場からなら遅くても20時までには帰宅できると思います」  当面のシフトを確認しながら、来て貰いたい日を伝える。スケジュールの合わない日があれば、平日でもいつもの一時保育を使うつもりでいた。今までの園には市役所の保育課から退園の通知は届いていたようなので、転園先からの可否連絡も近い内に来そうだし、それまでの間に子供を見て貰えるならとても助かる。 「分かりました、今のところどの日も通わせていただけそうです。日曜もお預かりできますが、一時保育に行かれますか?」  通いで子守りに来て貰えるのは楽だが、他の子との触れあいが全く無いのも寂しいかもと、日曜だけは今まで通りに一時保育を利用することにした。でも、もし一時保育の予約が取れなかった場合にはお願いすることにはなるだろうが。 「拓也が慣れてくれたら、日曜くらいは俺が見れるといいんだけど」  自分のスケジュール帳を開いて、伸也が小さく唸る。いきなり1歳児の相手を朝から晩までやる自信はないが、父親としてやってみたいという意欲はあるらしい。 「じゃあ、拓也が起きたら、オムツ替えてみる?」  長時間一人で面倒をみるということは、オムツを替えなきゃいけないし、食事もさせないといけないし、グズる子の寝かしつけもある。ただ遊び相手になるだけではないのだ。  瑞希のからかい半分の提案に、伸也は一瞬ギョッとしていたが、すぐに真顔に戻ってから意を決したように大きく頷いた。 「やるよ。父親なんだから、それくらい出来るようにならないと」 「えー、結構大変だよ。拓也、オムツ持って近付くと逃亡することあるし」  二人のやり取りを微笑ましく見ていたベビーシッターが、和室の方で子供が寝返りを打つ気配を感じて振り返る。 「もうすぐ起きられますね。お顔を拝見できそうで良かったです」  寝ぼけながらモソモソと布団の上で動いていた拓也は、目を開いて見慣れない天井をじっと見つめてから、首を動かして部屋の様子を確認している。すぐに泣かないところを見ると、寝起きでよく分かっていないようだ。不安がらせてはいけないと、瑞希は慌てて駆け寄ってから、拓也の顔を覗き込む。 「おはよう。よく寝てたね。新しいお家に来てるんだよ」 「マーマ……」  今にも泣きそうな顔で起き上がり、瑞希の胸にしがみつく。とんとんと優しいリズムで背を叩かれている内に落ち着いたのか、母の肩越しに周りを見回す。  最近よく見る顔と、知らない顔がソファーから穏やかな笑顔でこちらを見ている。 「拓也君、こんばんは。明日からママがお仕事の時間に、おばちゃんと一緒に遊んでくれるかな?」  瑞希に抱っこされてソファーの伸也の隣に座った拓也に、ベビーシッターが優しく声をかける。にこにこと微笑む表情も、先程までの大人相手よりも一段と大きい。子供相手のゆっくりしたトーンの話し方が、まさに保育園の先生を思わせる。  普段の拓也の生活リズムや好きな遊び、発育などについての確認を終えると、小澤祥子は雇用契約書に必要事項を記載したものを伸也に渡して帰って行った。 「鴨井さんの知り合いらしいから、安心していいよ」  自分達の状況を理解していて、万が一に会社の人と接触することがあっても上手くかわしてくれるはずだという。確かにこのマンション内には他にも会社が買い上げた部屋がいくつかあり、玄関を出れば関係者と顔を会わす確率は高い。 「そっか、良かった。私と拓也の荷物しかないから、小澤さんに不審がられてるかもって心配してたとこだった」  人見知りはしていたけれど怖がっていないようなので、拓也もきっと大丈夫だろう。良い人が来てくれたかもと、敏腕秘書の顔の広さに感謝する。 「拓也、結構汗かいちゃってるね。ご飯食べる前にお風呂かな?」  抱っこしながら子供の首後ろを触ると、Tシャツの襟はグッショリと濡れている。この季節は起きる度に着替えさせないと、すぐ汗疹が出てしまうから大変だ。 「お風呂なら、俺でもいけるかな? 歳の離れた親戚の子を入れたことは、一応ある」 「もしかしたら泣くかもだけど、準備するね」  伸也がコンビニに下着の替えを買いに行っている内に、お風呂に湯を溜めて、玩具の中から水遊びでも使える物を運び入れておく。  戻ってきた伸也に裸ん坊の息子を託し、瑞希はタオルを持って脱衣所で待機していた。初めはグズっていた拓也も、湯船に浮かぶ玩具に釣られて浴室へ入ると、しばらく後には父子の賑やかな声が響いてくる。  洗い終わった拓也を脱衣所で引き取る際、不意に伸也の裸体が目に入ってきて、瑞希はドキッとした。今更恥ずかしがるのもおかしいとは思うが、この2年間は子供以外の裸なんて見る機会はなかったのだから。
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