第二十八話・伸也の施策

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第二十八話・伸也の施策

 デスク脇に置かれたカップには、すっかり冷めきったコーヒーがほぼ半分残っていた。朝一に秘書に淹れてもらったままで、続きを飲む時間すらも惜しいと伸也はノートPCの液晶に目を走らせていた。  画面上を何度も確認し、些細な漏れがないかをチェックし終えた後、隣接した秘書室に設置されたプリンターが動き出す音が微かに聞こえてくる。プリントに気付いた鴨井が、印字されたばかりのそれを携えて奥の社長室へ続く扉をノックしたのと、手前の秘書室の入口扉が勢いよく開いたのは、ほとんど同時だった。  取締役会の準備をしている伸也の元へ、直接に乗り込んで来たのは常務の神崎だった。貫禄のある腹をダブルのスーツで隠した男は、自分の知らないところで動き出した伸也に腹立たしさを感じていた。 「いきなり取締役を集めて、どうするつもりだ」 「社内施策の詳細を説明させていただこうと思ってますが」 「ああ、ネットニュースで流れていたやつか。あれは公表する前に一言相談してくれても良かったんじゃないか?」  そもそも自分が担ぎ上げて代表の座に座らせたのだから、何かを決める時は確認してくるのが道理ではないかというのが神崎の考えだった。お飾りならそれらしく筋を通して、勝手な行動をするなとでも言いたいのだろう。 「あんなチンケな施策、わざわざネットで流すほどでもないだろうに。恥ずかしいとは思わんのかね」 「チンケ、ですか。それなりに反響をいただいてるとは思いますが?」  ふんっと小馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばすと、神崎は社長室のソファーでふんぞり返る。  以前は協力的だった百合子も、少し前から神崎を遠ざけているようで、娘との縁談は一行に進まないでいる。専務の退任まであと数か月しかない、急いで伸也の後継人のポジションに就いておきたい。そこで直接本人に話をしてやろうと、理由をつけて乗り込んで来たのだ。 「それはそうと、母親から聞いているとは思うがね、秘書課にいるうちの娘は――」 「ああ、その話は結構です」  言い終わらない内に、ばさりと話の腰を折られる。 「余計な噂を流すのも止めていただけませんか。それこそ、恥ずかしい」 「なっ……!」  まさか言い返されると思わなかったらしく言葉を失った常務に、「では後ほど、取締役会で」と退室を促す。社長室の入口傍で待機していた鴨井が、静かに扉を開ける。そして、神崎がまだ立ち上がりもしない内、何事もなかったかのように伸也はデスクに戻ると仕事の続きに取り掛かった。  怒りで顔を真っ赤にして出て行く神崎の背を深々と頭を下げて見送っていた鴨井は、社長室の扉を閉め終えると少し心配そうに眉を寄せた。 「何もご自分の方から敵対なさらなくても……」 「あの人が流した噂話を、経理の人間から瑞希も聞いたらしいんです」 「それは――」 「今回のは事前にそういう話があるのを知っていたから、すぐにデマだって分かってくれたんですが」  それは困りますねと秘書が大きく頷き返す。ようやく再会できたばかりの二人の間に、余計な波風は立てないで欲しいものだ。  KAJIコーポレーション本社ビルにある会議室にて、全ての取締役が出揃ったところへ、最年少でもある伸也が姿を現す。共に入室したのは社長秘書である鴨井と、グループ関連会社ADコーポレーション社長の安達健一。 「なんだ、今日は父兄参観か?」  どこからともなく聞こえて来たヤジに、一同から笑いが起こる。ここにいる者達にとって、伸也はただのお飾り社長に過ぎないことがよく分かった一幕だった。自分の立っている土壌の危ういさに、伸也は改めて身を引き締める。たった一度の失敗が命取りになる。 「本日集まっていただいたのは、新しい社内施策について、まずは取締役であるみなさんにご周知いただく為です」 「ああ、病児保育室を設置するってやつか。託児所のある会社なんて、今時珍しくもないと思うんだがな」  伸也のすぐ手前に座る専務の錦織が否定しつつも興味深げに聞く体制に入ると、ざわついていた他の者達も静まり始める。若い世代の多い派閥を抱えているから、専務に対しても施策についての問い合わせが多かったに違いない。 「詳細の説明と指揮は、看護関連ということで医療機材の取り扱いがあり、地域の小児科との連携が取り易いADコーポレーションに業務を一任するつもりです」  続いて入室してきたADコーポレーション社員からのプレゼンは、たった一日でよくまとめたなと思う量のデータを用い、子育てとの関わりの薄い者にも理解しやすいものだった。 「今回ADコーポレーションでは、現役で子育て中の社員を中心としたチームを作って、この施策の実行に当たる予定です。なので、よりリアルな意見を反映できるでしょう」  一通りの説明が終わった後は専務派からの質疑が多く、それに対してはADコーポレーション社長が自ら答える場面もあって、ただ父親だから任されたという訳でないことは明らかだった。 「本社では社内携帯のキャリア見直しによって通信費の大幅削減に成功しています。その浮いた資金を回すことで、前年と同等の運営費で賄えると考えています」 「将来的には託児所の設置も視野には入れておりますが、すでにそれぞれが保育所などの預け先を確保している今は、早急に必要とされているのは病児の預け先です」 「感染症や重度の病児の場合は自宅待機になりますが、子供は熱があるのに元気だったり、前日の嘔吐を理由に通園できなかったりすることも多く、そういった軽症の子供達の預かり先の確保は、円滑な職務遂行に繋がることと思います」  質問が出揃い終わると、伸也はそれぞれの顔を見まわした。業績に直結しないことには興味のない者もいれば、納得したように頷いている者など、反応は様々。福利厚生への興味は、上に立つほど薄れていくのだろうか。 「うちの娘も子供を理由に仕事を辞めたクチだ。今後はそういった者の復職も増えるかもしれませんな」  資料に目を落としながら、錦織が思慮深げに呟く。定年まで全うできる自分は、専業主婦の妻がいたおかげで子供を理由に休むことは一度も無かった。けれど好きな仕事に就いたにも関わらず、娘は共働きを続けられずにリタイアせざるを得なかった。実家の近くに居れば預かってやることもできただろうが、遠く離れていれば実の親でさえ手助けできない。 「定年まで残り僅かだが、出来る限り支持させていただきましょう」  騒めいていた会議室を、錦織の低い声が一瞬で制圧する。彼の判断を表立って反対できる者は、この場には誰一人としていない。何か言いたげな神崎ですら、今はぐっと言葉を飲み込んでいる。  表情は終始厳しいまま隣に座っている父が、テーブルの下で小さくガッツポーズを決めるのを伸也は見逃さなかった。
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