第三十二話・秘書の神崎彩菜

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第三十二話・秘書の神崎彩菜

 伸也が代表に就任してすぐ、関連会社の取締役陣との会食が何度か続いた。渡米前は接待の場を設ける側だったのが、今では受ける側であることに違和感を覚える。  相手からすれば、代替わりしたばかりのこのタイミングで、他所よりもさらに密な関係になれればという思惑があるのかもしれないが、立て続けの食事会でいちいち顔を覚えている余裕なんかない。  ただ唯一よく記憶しているのは、KAJIコーポレーションの本社ビルの建設にも携わったというゼネコンとの会食だった。相手方がどうというのではなく、体調不良の鴨井の代理で伸也に同伴した女性秘書への対応で、ただただドッと疲れた覚えがある。  自社ビルのエントランス前に停車していた白い社用車の前で、営業部長と共に伸也のことを待っていたのは、ライトグレーのスーツにシルバーのラメパンプスを合わせ、ふんわりと緩めに巻いたロングヘアの随分若い女だった。入口の自動ドアを出てその姿を見た伸也は、通りがかった営業部員がたまたま居合わせただけかと思った。  だから、にこやかにこちらへと駆け寄ってきた彼女が、伸也に向かって名乗った時はギョッとした。 「秘書課の神崎です。本日は、よろしくお願いいたします」 「神崎……ああ、神崎常務の?」 「はい。父がお世話になってます」 「鴨井さんからは岡本さんが来るって聞いてたんだけど、どうして神崎さんが?」  秘書課の課長も兼任している鴨井からは、主任である岡本という男性秘書が代理で同伴させていただきますと連絡を貰っていた。どんな手違いがあったとしても警戒する常務の娘である彩菜を送り込んでくることは、鴨井に限ってはまず考えられない。 「岡本さんよりは私が行く方が食事会では喜ばれるって、父が秘書室に来て言ってたんです。そしたら交代して貰えました」  女性秘書を同伴しての食事会、常務の頭の中はまだ昭和なのかと突っ込みたくはなるが、それが神崎常務の本質なのだろう。  今日のお店、一度行ってみたかったんですよね、と無邪気にはしゃいでいる彩菜の様子に、伸也は小さく溜息を漏らした。  営業部長の本田が運転する社用車に乗り込むと、神崎彩菜は当たり前のように伸也と共に後部座席に座ってきた。慌てた本田がわざとらしく咳き込んで、彩菜のことを窘める。率先して後部座席に座る秘書など、聞いたことがない。  だが、彼の真意は世間知らずな彩芽には伝わらなかったようだ。 「お風邪ですか? お大事になさってくださいね」  素でズレた発言をする彩菜に驚いて顔を上げた伸也は、ルームミラー越しに本田と目が合い、互いに苦笑した。 「最近、初めてのお店を開拓するのにハマってるんです」  同じ課の同僚と共に昼休憩は本社近くの店の探索をしているらしく、彩菜は最近お気に入りに追加したというパスタ専門店について揚々と語り出す。パンは食べ放題だとか、デザートは何種類の中から選べるとか、そういった身にならない話を車中で延々と隣で繰り返されて伸也は顔をしかめた。  無視を決め込んで膝上にノートPCを開き、メールで送られてきた書類に目を通し始めると、退屈だと言いたげに頬を膨らませている彩菜が視界の片隅に入ってくる。この調子では会食で余計な恥をかかされかねないと、伸也は隣に座る彩菜へと向く。 「神崎さんのスマホのアドレス教えてくれるかな?」 「ええ、勿論っ」  ぱっと目を輝かせて、嬉しそうにメアドを答える彩菜に、伸也はにこりと微笑んでからPCを操作する。すぐに彩菜が手に持つスマホからメールの着信音が鳴り響いた。 「今日の会食相手に関する資料を送ったから、店に着くまでに目を通して貰えるかな」 「え……はい」 「あと、向こうではマナーモードにするのは忘れないでください」  我ながら意地悪だったかもとは思ったが、ミラーに映った本田の満足そうな表情に安心する。間違いなく今日の会食では、唯一頼れるのは彼だけだ。  店に着いてからも彩菜の言動には営業部長と共に頭を痛めた。頑なに伸也の隣に座りたがり、会話の最中の必要以上のボディタッチと上目遣いは煩わしかった。 「安達社長はおモテになるんでしょうね」  彩菜の態度が露骨だったからか、会食相手からも揶揄いの言葉を掛けられる。首を振って否定する伸也の隣で、彩菜は大きく頷いている。 「そうなんですよ。安達社長に代わられてから、秘書課は激戦区なんです」 「神崎さん、タクシー呼んで貰って先に帰っていただけますか?」  低い声で言い放った伸也の言葉に、本田がスマホを持って個室から出る。車の手配が付いて戻って来た時も、彩菜は3杯目のカシスオレンジを片手に持ってご機嫌で伸也の腕に絡まっていた。 「社長はお酒は飲まれないんですか?」  酔っぱらって呂律の怪しくなってきた彩菜に反して、ウーロン茶しか頼まない伸也へ会食相手の取締役が問いかける。KAJIコーポレーションからの三人でアルコールを口にしているのは秘書の彩菜だけだった。相手側は運転手を担っている秘書以外はビールを中心に嗜んでいる。 「ええ、飲み過ぎて人生を狂わされかけた経験があるので、それ以来は飲んでませんね」 「それはそれは……」 「酔っぱらって気が付いたら飛行機の中だったので、怖くて二度と飲む気がおこらなくなりました」  先代からの長い付き合いのある会社だ、それなりに噂として聞いていたのだろう。それ以上の詳しいことは聞いてはこなかった。ただただ同情の目を向けられた。
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