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第三十七話・定例取締役会
株主総会を目前にした定例取締役会の場は、通常以上にざわついていた。いち早く駆け付けて、その会議室の様子を安達百合子はおかしそうに笑みながら眺めていた。先代社長の娘とは言っても、復職してまだ日も浅く非常勤に近いので、百合子に与えられた席は末席だ。だからこそ室内全体がよく見渡せる。
先に準備された資料へ静かに目を通している専務派に反して、集まってヒソヒソと何かを耳打ちし合っている常務派。と、その輪の中央で腕を組んでふんぞり返っていた常務のニヤけた顔がこちらを向く。
「ご子息のご活躍は何よりですな」
今改めて言うことでもとは思ったが、作り笑顔で会釈を返す。縁談のことはのらりくらりとかわしていたら、直接本人に言うと息まいていたが、その後のことは知らない。
――ま、あの子のことだし、自分で何とかするでしょう。
今日の会議の議題について確認すべく、手元の資料に目を落とす。真っ先に目に入ってきた議案1の時点で、呆れを含んだ溜息が思わず漏れ出た。
――なるほどね。朝からご機嫌だった訳だわ。
いつもより早くに家を出た夫が、お気に入りのネクタイを締めていたことを思い出す。7年前に初任給で息子からプレゼントされたそれは、とっておきの日しか見ることはない。彼にとって、極めて特別なアイテムだ。
議案1として記載されていたのは、ADコーポレーション社長の安達健一の取締役兼任。推薦者として、伸也と錦織専務の名が連なっているところを見ると、専務の隣の空席は健一の席なのだろう。上手く専務派を味方につけることができたようで何よりだ。
定時になり会議室に姿を出した伸也の後ろに続いた健一は、家で見るのとは違う少し険しい顔をしている。普段はお気楽な空気を醸し出している夫だが、本気の仕事モードとなると全く別人だ。そのせいか、以前の百合子が欠席していた会に起こったというヤジの気配は、今のところは何も無い。
無駄な前置きもなく、司会を務める営業部長により本日の議題が順に読み上げられていく。安達健一の取締役就任には常務の神崎が顔を歪めてはいたが、特に反対の意見を述べる訳ではなかった。すでに専務側が認めているなら過半数の承認を得ているのと同じで、翻すのは難しいと判断したのだろうか。否、神崎の表情を見る限りはそうでもないのか――。
続いて、伸也が打ち出した施策や他の業務などに関する議案が発表されたが、議案として出された事柄へは特に異論を発する者はいなかった。だが、会が円滑に終わり掛けようとしている時、神崎が右手を上げて発言の許可を求めた。
「準備されていた議案全てが可決されたということですが、私の方からもう一案、この場で可否を決めていただきたいことが」
いきなりのことに驚く司会者だったが、伸也が頷くのを確認してから神崎へと続きを促した。
「そちらにいらっしゃる安達伸也社長の、退任を求めたい。と同時に、本会の議案全ての取り下げを願いたい」
予めに打ち合わせしていたのだろう、常務派の面々からは拍手が起こる。それ以外に属する者達はざわつき、一斉に常務と伸也とに注目している。
長机に肘をついて両指を顔の前で絡ませると、伸也は驚いた風でもなく落ち着いた声で聞き返す。
「理由を伺っても?」
「就任早々でスキャンダルを抱えた者に、社の代表が勤まるものか」
常務の合図で全員へと配られたのは、3枚の写真がプリントされたA4用紙。カラーではなかったが、マンションの玄関前で伸也と向かい合っている瑞希と拓也が写っているのが分かった。
「会社の買い上げマンションに社長が住まわしている隠し子とその母親です。間違いありませんね?」
ニヤニヤと鬼の首を取ったかのように笑う神崎へ、伸也は冷ややかな視線を送る。ちらりと反対隣を見ると、口元が緩むのを必死で誤魔化している父の姿が目に入ってくる。思いがけず手に入った写真に目が釘付けになっている。
――ったく、初めて瑞希の顔を見て、喜んでる場合かっ。
「これは、隠し撮りですね?」
「う、たまたま部下がマンション内で、君を見かけたらしくてね」
で? と伸也は神崎に続きを促す。その顔には一類の焦りは見えない。それどころか、呆れを通り越して憐みを浮かべた視線が送られていることに、神崎自身は気付いてはいない。鬼の首を取ったぞとばかりに、上機嫌で𠮟責を続ける。
「KAJIコーポレーションの社長に隠し子発覚なんて、社内外でも騒ぎになるのが分からんのか? 公になる前に退任しろと言ってるんだっ」
会議室中に響くほど声を張り上げると、神崎は苛立ったように拳で机を叩く。ざわつき始めた室内に静けさが戻ってくる。
「スキャンダルと騒ぐ前に、ちゃんと裏取りはされた方がいいですよ。その子は隠し子なんかではないです」
「何を今更。こっちはちゃんと調べたんだぞ、子供の父親は間違いなく君だ」
拓也の戸籍まで調べたのかと、呆れを含んだ溜息が漏れ出る。
「確かに、子供は私の子です。当然、認知しています」
「なら、隠し子で間違いないじゃないか」
「でも、隠し子ではないですね。そもそも隠してはいませんし。一緒に写っている女性は、私の正式な婚約者です」
何を言ってるんだと神崎は目をぱちくりさせる。そっと伸也の父親を見れば、写真のコピーを食い入るように見て頷いているし、会議室の末席にいる母親も笑顔で頷いている。両親公認なのは一目瞭然。
「彼女とは6年前から付き合っていますが、婚約中にあなたから強引に渡米させられたおかげで、私は彼女の妊娠も出産も知らずにいたんです。帰国するのに時間がかかったせいで認知できたのは最近ですが、それが何か問題ありますか?」
「と、渡米に関しては私だけじゃないぞ、母親の協力があったからできたことだっ」
「……そうですね。身内も絡んでいたということで、私自身が当時を蒸し返すことはありませんが――」
伸也は部屋の隅に座る百合子に視線を送る。
「そうね、彼女の方から訴えられるようなことがあれば、私は何とも言えないわ。あの場合なら、民事にはかけられるのかしら?」
お腹の子の父親が拉致同然で飛行機に乗せられて音信不通。どんな罪に問うことができるかは分からないが、精神的苦痛に対する慰謝料の請求くらいはできそうだ。勿論、そういった場合は神崎も百合子と同罪だが。
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