追加エピソード・社内を駆け回る噂3  (元スター特典)

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追加エピソード・社内を駆け回る噂3  (元スター特典)

「会わせてくれないのなら、せめて写真だけでも送ってくれてもいいんじゃないの」  そう言いながら社長室へと踏み込んで来た母親を、伸也は呆れ顔で出迎えた。まだ一度しか顔を合わせたことはないが、安達百合子にとって初孫になる拓也。彼の成長していく様子を遠巻きでも良いから見たいと思うが、現状ではまだ叶わない。  ならせめて写真くらいはと何度も訴えているけれど、薄情な息子は滅多に送ってもくれない。そこで本社に来たついでの直談判だ。 「あー……忘れてた。またそのうち、送っとく」 「そのうち、そのうちって言って、いつまで経っても何も送ってくれないから来たのよ!」  伸也が多忙なのは重々承知だ。けれど、写真一つ送るくらいしてくれてもいいじゃないの、とKAJIの女帝は吠えたてる。困り顔をしつつ、胸ポケットから取り出したスマホを操作し始めた伸也は、アルバムを開くと、先日の海で遊んだ日の写真から3枚を選んで、母親宛に送信してやる。 「あら、随分と顔付きがしっかりしてきたのねぇ」  部屋に入って速攻、当たり前のようにソファーを陣取っていた百合子は、バッグから取り出した自分のスマホを目尻を下げながら眺めていた。秘書が淹れて出してくれたコーヒーはすっかり冷めてしまったが、そちらには手を伸ばすことなく、小さな液晶画面に完全に釘付け状態だ。 「ねえ、動画はないの? 写真ばかりじゃなくて」 「……あるにはあるけど」  海辺で小さなバケツを持ったまま走り回る拓也の、ほんの数秒ほどの動画。息子から送られてきたそれは、手振れが激しくてお世辞にも見やすいとはいえない。けれど、百合子は何度も繰り返し再生する。 「可愛いわねぇ……」  無邪気にはしゃいでいる孫の姿と、スピーカーから聞こえてくる伸也と瑞希の笑い声。彼らを引き離し、過酷な境遇を強いてしまった百合子の罪は一生消えることはない。孫を愛しいと思う気持ちと同時に、己の過去の決断を悔いた。  せめて一日でも早く、彼らが一緒に居られるようにと尽力すれば、少しくらいは罪滅ぼしにもなるだろうか。 「そうそう、何かに使えるかもしれないから、これは預けておくわね。ゆくゆくは伸也の物になるんだし、好きにすればいいわ」  横に置いていたバッグから取り出したA4サイズの茶封筒を、百合子は目の前のテーブルへと置く。そしてようやくコーヒーに手を伸ばし、その冷めた温度に小さく眉をひそめる。 「ただ長子が途絶えなかっただけの家系の、何が偉いのかしらね」  事あるごとに、父である宗助が呟いていた言葉を、百合子も同じように呟いてみせる。父が気嫌いして距離を置いていた十分な理由がそこにはあった。  瑞希の公休が久しぶりに日曜日にあると聞いて、伸也は週末が来るのを心待ちにしていた。接客業だから基本的には平日に公休日ばかりの瑞希だが、イベントのない月などならたまに土日に休みが回ってくることがある。  特に何がしたい訳でも、どこかへ行きたい訳でもない。ただ一緒にいるだけで十分だ。離れていた時間や距離を、埋められる時を共に過ごせることがこの上なく幸せだった。ちゃんと傍にいて、手を伸ばすだけで瑞希の温もりを感じることができる。一度手離してしまった幸せを、もう一度取り戻せることができた自分は、とても運が良いのかもしれない。  ビジネスバッグにノートPCを突っ込んで帰り支度をしていると、自然に頬が緩んでいた。鴨井からも「最近、顔から強張りが抜けましたね」と微笑みながら揶揄われてしまうが、自分でも自覚していた。帰国した直後にはなかった自分の居場所――心安らぐ場所を、今はちゃんと見つけてしまったのだから。  時刻を確認しようと左腕の袖に手を掛けようとした時、社長室の扉をノックする音が耳に入る。間を置いて開いた扉からは、困ったように眉を寄せた秘書の顔。 「神崎常務がいらしたのですが、いかがいたしましょうか?」 「え、そういった予定はありませんでしたよね?」  問いかけに問いかけで返すと、鴨井は無言で苦笑いを返してくる。互いに分かりきったやり取りなのだが、案の定、後ろで聞いていた神崎の癇に障ったようで、不機嫌を絵に描いた表情で秘書を押しのけると、ずかずかと扉を入ってきた。 「別にそこまで時間を取らせることじゃない」  さも当然と、ソファーにどしりと腰を下ろすと、扉前で秘書に足止めされていた男を手招きする。 「ごめん、もう帰るところだった?」  常務の隣の席に躊躇いなく座った鍛冶陽介の笑顔は、いつもと同じく伸也のことをどこか下に見ている印象を与える。小さな幼子を宥めているような、余裕の笑顔。 「一応、今日で出向期間が終わるからさ。伸也にも挨拶しとかなきゃと思ってね」 「ああ、今日までなんだ」  合同プロジェクトが終われば、陽介が本社にいる理由が無くなる。詰まらない噂話もその内に消息していくだろう。 「鍛冶君に本社勤務の話が出ていたのを、社長の独断で棄却したそうじゃないか。個人的な理由を持ち出して人事に口出しするのはどうかと思うが」  ご機嫌な笑顔を張り付けている陽介の隣では、神崎が仏頂面で伸也を睨みつけてくる。三人分の湯飲みをソファーテーブルの上に並べていた鴨井は、社内で誰よりも人事へ口を出している男が何を言っているのかと吹き出しそうになったが顔にも出さず堪えていた。 「個人的な理由、ではないですね――先代の意向に沿っただけです。鍛冶の親族を本社置かないというのは、創業以降の暗黙の了解です。現に彼が居た短期間で、社内には誤った噂での混乱が生じていましたし」 「いや、その噂はあながち間違ってはいないんじゃないかね。鍛冶の血縁者で継ぎ続けるのなら、本家筋の正統性を主張してもおかしくはない」 「KAJIコーポレーションには鍛冶の名が必要だということでしょうか?」 「当然だ。先祖代々の家を守っている本家筋の出である彼は、しかるべき場所でもっと評価されても良いはずだろう」  やはり神崎は何か大きな勘違いをしていると、伸也は呆れを含んだ溜息をついた。 「そもそもこの会社は鍛冶宗助が個人で創業したものです。常務は鍛冶一族が創ったとでも思い込んでおられるようですが、そうではありません。あと、人事部の資料を見る限り、彼の仕事ぶりは本社に引き抜くほどでも無いように思います」  それから、と伸也は立ち上がってデスクの引き出しから茶封筒を取り出してくる。先日に母から渡された物だ。それから出した書類を二人の前に広げてみせる。 「先程、常務はおっしゃっていましたが、彼の実家である先祖代々が守ってきたという家なのですが――」  伸也が神崎達の前に出したそれは、北関東の山間にある土地の権利書。そこに記載された住所に鍛冶陽介は目を剥いた。間違いなくそれは、自分の生家のものだ。しかも、伸也によって指示された所有者名を見てみれば、安達百合子の名が表記されている。それ以前の所有者名は鍛冶宗助の名。祖父が亡くなった今、娘である百合子がそのまま相続したことになっている。 「祖父が陽介の父親と取り交わした念書も残っています。それには工面した金額と同等額での買戻しには無利子で応じると記載してありましたが、すでに昨年で期限切れになってますね」 「……俺の実家、が……?」 「おじさんからは何も聞いてない? うちの母が確認したら、返済は無理だから年内には開け渡すって言ってたらしいけど」  ただ長子が途絶えなかっただけの家系、百合子の呟きの真意はここにあった。本家の子、分家の子と区別していた割に、金に困れば親戚だからと都合良く泣きついてくる。先代が無情にも返済期限を設けていたのは、そういった積み重なる腹立たしさからなのだろう。  茫然として固まって動けなくなった陽介は、念書に書かれた見慣れた父の署名をじっと見つめるしかできない。 「ま、この件は母からも好きにしていいって言われてるから、何とかしてあげれると思うけど」 「ごめん、助かる……」  使えそうな駒を新たに手に入れたと思っていた神崎は、「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てて部屋を出て行く。完全な弱みを握られている鍛冶陽介では、伸也の対抗馬にはなり得ない。  その後ろ姿を、鴨井は苦笑を堪えながら見送った。
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