追加エピソード・運動会3

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追加エピソード・運動会3

 よーいドンで駆け始める先頭グループ。後ろに並んでいた保護者達は、つられて一緒に行こうとする我が子を引き留めるのに必死だ。  20メートル程の距離を進んでから、玉入れをして戻ってくるだけの単純なレース。大人の腰の高さまで縮められた篭へ、周りに転がっている玉を拾って投げ入れるだけ。一人一個のノルマだが、まだヨチヨチ歩きの子供を連れて真っ直ぐ進むのだって簡単なことじゃない。  スタート時点から歩くのを拒否って抱っこされてしまってる子もいれば、保護者席から手を振っている母親を見つけ、全く違う方向へと走り出してしまう子もいる。そんなグダグダな光景も、ただただ微笑ましい。  拓也達は三番目のグループらしく、他の親子と一緒にスタート前に並んでいる。しゃがみ込んでいる伸也の横で、拓也は立ったままキョロキョロと首を動かして周りの騒ぎを見回しているようだった。  伸也が子供の手を握って、前を指さして一生懸命に何か話しかけているのが瑞希の場所からもよく見えた。多分、拓也に向かってレースのルールを説明しているのだろう。見た感じでは、ほとんど聞いて貰えてないみたいだが……。  スマホのレンズを夫と子に向けながら、瑞希の口の端から自然と笑みが零れる。こんなに穏やかな光景を見れる日が来るとは思わなかった。息子の成長を一緒に見守ってくれる人がいる、それはとても幸せなことだ。  2グループ目が次々とゴールしていった後、ずっとしゃがんでいた伸也が立ち上がる。けれど、スタートラインに連れて行かれるのを、イヤイヤと首を横に振って拓也が愚図り始めているようだった。  困ったように頭を傾げた後、伸也は息子の頭をポンポンと軽く叩き、ニヤッと笑ってから拓也を両手で持ち上げる。そして、そのまま自分の肩の上へと乗せた。肩車をしたまま走るつもりだ。観覧席の一部からは笑い声が聞こえてくる。  視線が一気に高くなり、途端に満面の笑みを浮かべた拓也は、得意げに父が被っていたキャップを掴み取ると、それをポイっと下に投げ捨てる。それは担任の先生が笑いながら拾い上げてくれていた。  声を出して大喜びしている拓也を肩に乗せて、伸也はそのまま玉入れのポイントまで早歩きで進んでいく。少しばかり背伸びして篭へ赤色の玉を入れた後、戻りはおんぶをせがまれたらしく、首にがっつりとしがみついた息子を片腕で支えたままのゴール。自力では一歩も走ることがなかった拓也のレースは、伸也の頑張りで何とか無事に終わった。 「ただいまー」 「お疲れ様。重労働だったね。拓也も頑張ったね、玉入れ上手だったよ」  ゴール後に先生からキャップを受け取った後、そのまま保護者席に戻って来た伸也は拓也をおんぶしたままだ。出番が全て終わった乳幼児クラスはこのまま解散だから、この後は各自が保育室に荷物を取りに行って自由に帰っても良いらしい。 「まさか、ここまで走ってくれないとは……って感じだよ」  シートの上に拓也を下ろすと、伸也は差し出されたマグボトルに口を付けた。あー疲れたと嘆いてはいるが、満足気に笑っている。拓也は瑞希のバッグの中にお気に入りの車の玩具を見つけ、勝手に取り出してビニールシートの上で走らせ始めた。 「折り返しの玉入れの場所が、ちょうど本部テント前だっただろ。カメラのシャッター音が半端なかったんだけど……」 「あはは」  来賓席は絶好の撮影スポットだったに違いない。本部テントの方を見ると、接待役の事務職員から紙コップに入った飲み物を差し出されて、笑顔でそれを受け取っているところだった。他の来賓とも歓談したり、テントに立ち寄った園長からは何やら園の施設説明を受けている様子も。孫の出番が全て終わってしまえば、後は仕事モードでやり過ごすつもりらしい。  顔を見せに行った方が、と気を遣う瑞希へ、伸也は「勝手に来てるだけだから、いいって」と首を横に振る。今後も通い続けるつもりの保育園だから、目立つ行動は避けるのが無難かと瑞希も渋々に納得し、一人で保育室へと荷物の回収に向かった。  園庭の賑やかさとは反対に、園舎の中はとても静かだった。入り口から一番遠い保育室まで来ると、スピーカーを通したアナウンス以外の音はほとんど聞こえては来ない。 「あ、こんにちは」  開きっぱなしの保育室の中を覗くと、同じクラスの保護者が瑞希よりも先に帰り支度をしていたので声を掛ける。名前まではまだ覚えていないが、拓也と近い月齢の女の子の母親だ。 「こんにちは、お疲れ様です。あっという間でしたね、大きい組さん達は昼前までなんですよね」 「みたいですね。長いと観てるだけでも大変ですよね……」  互いに短い時間でも結構疲れたのにと、ふぅっと溜め息を吐く。 「そう言えば、拓也君はパパ似なんですね、そっくり」  よく言われます、と答えながら、相手が子供の名前まで憶えてくれていることに驚く。話しながらも手早く荷物を回収して、並んで保育室を出る。本当に当たり障りのない会話しか交わすことは無かったが、「それじゃあ、また」と互いに会釈して別れた後、瑞希は何とも言えない気持ちになる。  同じクラスの保護者とさえ、これまでまともに会話したことはなかった。詮索されたくないことが多すぎて、挨拶以外は自然と避けていた。送り迎えで他の保護者とは合わないことにホッとしていた。  ――でも、もう大丈夫。一人で頑張らなくてもいいんだから。  荷物を抱え直して、瑞希は家族が待つ保護者席へと向かった。
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