追加エピソード・店長の転勤3

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追加エピソード・店長の転勤3

「お疲れ様です、東モールの西川です。経理の井上さんはいらっしゃいますか?」  本社へと繋がった電話口へ向かって、恵美は普段よりワントーン高めの声で経理担当を指名する。瑞希も何度か電話で話したことがあるが、古参で本社勤務歴も長いベテランの女性社員だ。午前中の慌ただしい時間帯にも関わらず、電話はすぐに経理職員へと繋がったらしい。 「あ、井上さん、お疲れ様です。昨日送らせていただいている出金表のことなんですが――」  木下から受け取った先日分の出金表を確認しながら、恵美が順を追って説明し始める。  ショッピングモール中に、開店を知らせる軽快な音楽が流れ始めた。遠くの方から聞こえ出した騒めきが、館の隅っこにあるここまで届くにはまだもう少し掛かるだろう。 「これなんですが、前任の吉崎さんが間違って北町店分をうちのアカウントで発注されたみたいなんですよね。購入品は届いてすぐに送り直しされて向こうに着いてますので、両店の経費の訂正をお願いしたいんです」  バイト君の話を聞く限り、吉崎は故意的にこの店の経費を使って購入したとは思うのだが、建前ではちょっとした発注ミスということにしてあげるらしい。あまりにらしくなくてどうしたんだ? と意外そうに見守る瑞希へ、恵美は舌を小さく出しながら笑い返した。 「あと、できれば発送に掛かった送料も元払いになってますが、それもうちの方で計上する必要はないと思うんですよね。――はい、伝票は出金表と一緒にFAX済みです」  備品の購入代金に比べたら安いが、送料の負担だって見逃さない。本来は必要のない経費で、こちらの店が払わされるのは納得いかない。やっぱり恵美は恵美だ、容赦なかった。 「それからですね、吉崎さんにうちの備品ストックを大量に持って行かれちゃったんで、これから足りなくなった物の発注をし直さなければいけないんですが、これってこっちの経費で計上されるのはどうかなと思いまして……。結構急ぎで必要な物が多いんですが。今、購入予定リストをFAXします」  吉崎が持ち出したと思われる備品リストを、通話しながら本社宛てにFAXする。リストされた物に一つも無駄な物は無いはずで、大半が至急に購入しなければ業務に支障をきたす可能性がある。量は多いが発注自体を止められることはないはずだ。  そして、それらに掛かる経費は吉崎の店に計上してもらうのが当然だと、恵美は主張し続ける。 「北町店に言って送り返して貰うのでもいいんですが、それだとまた送料が余計に掛かっちゃいますよね? なら、こちらで新たに買い直す方が手っ取り早いと思うんです」  返して貰えたとして、その後に向こうは向こうで一から買い直しになる。掛かってしまう日数や送料を考えると、どちらが賢明だろうかと。イレギュラーな対応に電話口の井上は少し考えあぐねいている風だったが、発注すると主張している物品に不審な点は見当たらず、渋々ながらも了承してもらえたようだった。 「あと、キャリア支給のブルゾンなんですが、あれって本社発注でしたよね? こちらも足りなくなった分を追加お願いします。――そうですねぇ、2枚あれば何とかいけると思います」  吉崎が持ち出したと思われるのは1枚だけだったはず……。ついでに古くなった分も交換してもらう気なのか、多めに言っている。 「――助かります。よろしくお願いします」  経理との交渉を終えて受話器を下ろし、ふぅっと長い息を吐いた後、恵美は瑞希の顔を見上げてニッと悪い笑顔を見せた。 「納品書をFAXする時、北町店分って大きく書いといて、だって」 「全部、向こう持ちに?」 「当然!」  このことを他店へ移動した前任が気付くのは、下手したら来月頭の実績集計後だろうか。当日の売り上げしか見ていない吉崎のこと、昨日の経費が書き換えられたことすら気付かない可能性が高い。 「恵美のことだから、てっきり吉崎店長に直接文句でも言うのかと思ってた」  ぽろっと本音を漏らす瑞希に、「私のこと、何だと思ってんの?」と恵美はケラケラと笑い返す。 「まさか。嫌でも月1は店長会議で顔合わせなくちゃいけないんだよ、揉めないに越したことはないわ」  申し送りもなく備品を持ち出したのは吉崎の方だ。責める理由はあっても責められる謂れは全く無い。けれど必要以上に敵対してしまっても良いことなんてほとんどない。古賀マネージャーが恵美を後任に指名した根拠は、おそらくこういうところにあるのだろう。  店の前を通る人の姿がちらほらと増え出して、本日最初の来客が店の中へと足を踏み入れた。丁度、入り口近くでカタログの入れ替えをしていたバイト君が、率先して声を掛けに行く。  一人目が引き金となったのか、次々と訪れてくる客。これまでなら誰よりも先に接客に出ていっていた恵美も、今日は社用PCの前で真剣な表情をしたまま動かない。ならば、と瑞希は気合いを入れてから首元のスカーフをきゅっと整え直して立ち上がる。 「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらでお伺いさせていただきます」
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