追加エピソード・店が終わった後で

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追加エピソード・店が終わった後で

 ショッピングモール自体は21時まで営業しているが、テナントの一部にはそれよりも先に閉店するところがいくつかある。瑞希達が働くショップは契約サポートセンターの対応時間に合わせて営業しているので、テナントの中でも一番早い19時の閉店。勿論、来客があれば閉店時間を越えて接客することもあるし、その場合は残業確定だ。  特に大きなトラブルも無く、閉店前には締め作業に取り掛かれるような平和な平日。契約書の控えをファイルに綴じ終え、瑞希はバックヤードからレジのマスターキーを持って店頭へと出た。レジ清算にはまだ早いが、先に現金の確認くらいはしておこうと思ったのだ。そして、近くのカウンターで電卓を探していると、なぜか周囲が生暖かい目で自分のことを見ているのに気付く。 「え、何?」  恵美や木下は勿論のこと、学生バイト君まで妙にニヤけた顔を瑞希の方に向けている。意味が分からず目をぱちくりさせていると、恵美が黙ったまま店の入り口の方を、PCに隠れるよう控えめに指差した。その示された方向へ視線を向けて、瑞希は一気に顔が紅葉する。 「伸也……?」  朝にマンションを出た時と同じ黒色のスーツ姿で、ノートPCと書類がぎっしり入っていて見た目よりも重いビジネスバッグ。仕事帰りなのは一目瞭然の姿の夫が、入り口横の壁に凭れながら手持ち無沙汰にスマホを眺めていた。店内からは見えにくい位置とは言え、完全に隠れる場所でも無かったから、目ざといスタッフからはすぐ見つかってしまったらしい。  瑞希は慌てて伸也の元へ駆け寄った。 「え、どうしたの?」 「一緒に帰ろうかなと思って。LINEは送ってたんだけど、まだ見てないか」 「見てない」  休憩時間以外はロッカーの鞄に入れっぱなしだから、と伝えると「だよね」と伸也は照れ笑いしている。出たついでに置き看板を店の中へと運び入れている間も、どこかしらから冷やかすような生暖かい視線を感じたのは気のせいだろうか。 「安達さん、終わるまで待ってるって?」 「うん、一緒に拓也のお迎えに行ってみたいんだって」  横目で外の様子をちらりと見てから、恵美がニヤニヤと笑う。いまだにネームプレートや名刺では田上の姓を使っているが、瑞希の姓が変わったことは皆が知っていた。周知の通り、彼が拓也にとって血の繋がった父親であることは、恵美にはとっくに気付かれている。  締め作業が全て終わり、私服に着替えた瑞希が店舗の外へ出ると、伸也は携帯電話を耳と肩で器用に挟みながら、手帳とペンを持って真剣な顔で通話しているところだった。瑞希の姿に気付くと、眉を下げて口だけを「ごめん」と動かして見せる。  珍しく普段よりも早く仕事を終えたのかと思ったが、少し無理して来てくれたのは丸わかりだ。  モールの通路に設置された長いソファーに腰かけて、伸也のことを離れた場所から眺める。難しい顔をして何やら考え込みながらメモを取ったり、頷いたり。付き合っている時には見ることがなかった姿だ。あの頃もADコーポレーションの営業マンとして忙しそうだったけれど、今と比べたら全然。仕事の量も重みも大きく増えているはずだ。 「ごめん、反対に待たせてしまって」  電話を終えて瑞希の元へ戻ってきた伸也が申し訳なさげに謝ってくる。普段は従業員用の出入り口から退店する瑞希だが、今日は最寄り駅に直結している中央エントランスに向かって伸也と並んで歩き始めた。  まだほとんどのテナントが営業をしている時間。周りからは、仕事帰りにショッピングデートしているカップルにでも見えるのかもしれない。拓也抜きで出歩くなんて、随分と久しぶりでちょっとだけ照れくさい。  駅へと続く空中回廊。人工的に作られたイングリッシュガーデンが色鮮やかにライトアップされている。毎日のように通り抜けてはいるが、わざわざ立ち止まって見入ることは無かった。 「なんか、クリスマスみたいだね」  そう言って、伸也がバッグを持たない左手で瑞希の右手を捕まえる。急に絡められた指に、瑞希はドキッとして隣を歩く夫の顔を見上げた。けれど、伸也は何食わぬ顔で前を向いている。  肌寒さを感じるようになった夜に、その手の温もりはとても優しくて安心する。きゅっと力を入れて握り返すと、同じように握り返され、もう一度顔を見上げれば、今度は伸也の方もこちらを向いていた。 「瑞希と会えて、本当に良かった」  もう二度と会えないかもしれないと、そう考えていた時の息苦しさは今でも忘れない。こうしてすぐ隣に瑞希の存在と体温を感じることができているのは、奇跡だと思えるほどだ。  伸也の言葉に、瑞希は再び彼の手をきゅっと握り返すことで答えてみる。あえて口にしなくても、自分も同じ気持ちだということは、きっと伝わっているはずだ。  初めて両親揃ってのお迎えに、今日も最後の一人になっていた拓也は興奮を隠さない。母の後ろに隠れてそっと保育室を覗き込んでいる父を見つけ、「パパ!」と指さしながら駆け寄っていった。そして、それまで一緒に遊んでくれていた保育士に、「パパ、パパ」と一生懸命に紹介していた。ようやく二歳になったばかりの拓也にとって、彼は間違いなくちゃんとパパなのだ。
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