追加エピソード・恋の始まり?(恵美 ver.)

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追加エピソード・恋の始まり?(恵美 ver.)

 朝礼で使ったバインダーをカウンター後ろの棚に戻していると、ショッピングモールのテナント担当が店前で中を覗き込んでいるのを見つけた。  ずんぐりむっくりという表現がぴったりくる体型に、愛嬌ある童顔と銀縁の眼鏡。ぱっと見では分からないが、広いモールの半分以上の面積を占めるテナントをたった二人の社員で管理しているのだから、意外とやり手なのだろう。 「あ、西川さん、いたいた。これ、今日の資料だから先に渡しとく」  恵美の元へ小走りで駆け寄り、手に持っていた資料の束から一部を取り出して差し出してくる。A4コピー用紙が2枚ホッチキス止めされた物を受け取り、恵美が聞き返す。 「今日のって?」 「吉崎君から聞いてない? 今日、テナント会議だよ。15時から社員食堂で」 「あー……全く聞いてないですね」 「ああ、そうなんだ。吉崎君もいい加減だなぁ。店長交代ってことだし、簡単に挨拶してもらうかもだから、そのつもりで」 「はぁ」  日を追うごとに、次々と出てくる前任の失態。これまでの会議資料がどこに置いてあるかさえ、知らされてはいない。まずはそれから探さねば……。  忘れないよう社用PCのディスプレイの横に『15時。テナント会議』と記載した付箋を張り付ける。記憶力は悪くはない方だとは思うが、何かに書いておかないと不安になる。所謂、メモ魔というやつだ。  閑古鳥が鳴く寸前という、静か過ぎる平日。昼前から順に休憩を回し始め、瑞希と木下七海が店に戻って来てから不吉な報告をしてきた。 「外、めっちゃ雨ですよ。豪雨です」 「え、今日って雨予報なかったでしょ?」 「さっき、急に一気に降ってきたから、これは……」  エントランスの方角へ視線を向けて、瑞希が難しい顔をしている。傘を持って歩いている客は一人もいない。一時的な集中豪雨は嫌な予感しか感じさせてはくれない。  案の定、最後に休憩に出た恵美が店へ戻って来た時、店内は突然の大雨に被害を受けた客でごった返していた。バックヤードから代替え機を持ち出しながら、後輩社員が引きつり笑いを浮かべている。 「ヤバイです。水没ラッシュです。しかも、保険に入ってない人ばっかり……」 「……頑張ろ」  修理に出したところで修理不可か有償確実。こういう時の為に保険加入を勧めているのだが、入っていなかったり既に使い終わっていたりと使えない人もいる。その中でも機種変更が出来る期間で無い人には代替え機を出して、機変できる期間まで待ってもらうしかない。 「ハァ?! こないだ買ったばっかなんだけど! ふざけんな」  頭からびしょ濡れの若い男が、瑞希が座っているカウンターで声を張り上げていた。椅子の横に立てている鞄からも水滴が滴り落ちているところを見ると、豪雨に直撃してしまったらしい。 「ちょっと濡れるくらいで壊れるかよ、普通。今まで使ったやつなら、これくらいは平気だった!」 「こちらの機種は防水タイプではありませんので……」 「じゃあ、その保険ってやつに、遡って入れろよ! まだ一か月も経ってないんだし、何とかなるだろ?!」  男の衣服の濡れ具合から、ちょっと濡れただけな訳がない。全身が水没状態で、逆切れしたくなる状況なのは理解できるが、店内の他の客もさすがに失笑を漏らしている。  怒鳴られても冷静に対応している瑞希の様子に、恵美は自分の出番はなさそうだと安心して、目の前で悲壮感を漂わせている女子高生へと向き合った。 「今日のところは代わりの機種を貸し出しさせていただきますので、保険を使われるか機種変更されるかはお家の方と相談されてから――」 「代替え機って、同じのはないんですか?」 「申し訳ございません。今、同じスペックで貸し出し可能なのはこちらだけになります」 「……そうですか」  大判のタオルハンカチで髪を拭っているJKは、不満げに唇を尖らせる。雨で冷えて白くなった右手で書類へサインしてから、おもむろに顔を上げて聞いてくる。 「今、メッセージとか来てたら、どうなってるんですか?」 「サーバへ残っているものなら、代替え機の方で受け取れますよ」 「そっか、良かったぁ」  切り替えの終わった代替え機を受け取ると、早速アプリをダウンロードし始めている。歩きながら操作するJKの後ろ姿を、恵美は「ありがとうございました」と頭を下げて見送った。  そして、ふと自分の左腕へ視線を移し、首を傾げた。時計の針は3時を過ぎたところを示しているが、この時間には何か大切な用事が入っていたような……。 「あ! テナント会議!」  カウンター後ろの棚に立て掛けていたファイルを掴み、慌てて店を出る。一瞬の目配せで瑞希が「了解」と頷き返していたので、店のことは大丈夫なはずだ。  スタッフオンリーになっているモールの裏へ続く観音扉を抜けて、中の階段を駆け上がる。二階の隅にある社員食堂へと肩で息しながら駆け込むと、その場の視線を一斉に浴びてしまう。 「遅れてしまい、申し訳ありませんっ」 「あー、やっと来た。吉崎君に代わって店長になった西川さんです」 「よろしくお願いします」  頭を下げながら、指定された席に腰かける。会議とは言っても、テナント同士が話し合うことなんて何もない。ショッピングモール側からの連絡事項を一方的に伝えられるだけだった。
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