第五話・朝の携帯ショップ

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第五話・朝の携帯ショップ

 結局、朝まで起きることがなかった拓也を慌ただしく風呂に入れてから、その一日は始まった。そうでなくても時間の余裕のない出勤前に、子供をお風呂に入れるという試練が追加され、瑞希はショップに着く前からドッと疲れた。昨夜のことをゆっくり考える時間なんて、全くと言っていいくらいに無かった。  今日こそ朝礼に遅刻するかもと焦り、保育園からの道のりの半分は立ち漕ぎで自転車を飛ばした。汗だくで漕いでいる瑞希の横を、涼しい顔をして追い越していく電動アシスト付き自転車のサラリーマンには殺意すら覚えた。  ただのノーマルなママチャリでさえ、子供用の椅子を追加したりヘルメットを用意したりと結構な金額を支払ったと思う。まして電動アシスト付きなんて、高すぎて売り場すら見て回った記憶もない。世の中、少しでも楽しようと思うと余計にお金がかかるのだ。なんて、シビアな世界だ。  今日もギリギリで出勤してきた瑞希のことを、若きイケメン店長はじろりと冷たい視線で出迎えてくれた。今月の実績表を挟んだバインダーを片手に、スマホで時間を確認してからスタッフに招集をかける。毎朝、9時半きっかり秒単位で開始される朝礼は、今日もたいした内容もなく前日の売上金額を読み上げていくだけで終わった。 「それでは、本日もよろしくお願いします」 「「よろしくお願いします」」  締めの挨拶後、各々の作業に戻る。よろしくと言っていたくせに、店長率いる数名は喫煙室に一直線なのはいつもの事。掃除も開店準備もする素振りすら見せない。そんなすぐに休憩が必要になるような朝礼じゃなかっただろうにと、恵美の毒舌は今朝も炸裂している。  しばらくするとショッピングモール内に開店を知らせる放送が流れ、やたら爽やかな音楽が鳴り響く。遠くの方で来客の騒めきが聞こえているが、モールの隅っこの店舗に人通りが出来るまではタイムラグがある。瑞希は昨日の閉店間際にまとめておいた修理機を梱包し、配送業者が来た時にすぐに出せるようにと送り状を書き始めた。接客業とは言っても、意外と事務作業の方が多い。 「いらっしゃいませー」  隣のカウンターに座る恵美が、一番乗りした来客に声を掛ける。混み合っている時に使う発券機も平日は全く使われることがない。手の空いている者から対応していくのがこの店舗でのやり方だった。 「私、行ってくるね」 「うん、お願い」  張り切ってカウンターを出て行く恵美の様子から、若いイケメン客でも来たのだろう。どれどれ、と瑞希は書き終わったばかりの送り状から顔を上げた。 「あ、伸也」  恵美が積極的に話しかけに出た客は、昨夜とはまた違う黒色のスリーピース姿の元彼、安達伸也だった。仕事の途中なのだろうか光沢のある青のネクタイを締め、恵美に示されて瑞希のことに気付いたらしく、早足でカウンターへと歩み寄ってきた。 「おはよう。瑞希」  ニコニコと人懐っこい笑顔を振りまきながら、瑞希の前の椅子を引いて当たり前のように腰掛ける。2年もの間一切の連絡もなかった元彼が、昨日に続いて二日連続で瑞希の目の前に現れた。思わず動揺してしまうのは無理もないだろう。何なら、昨日の出来事はただの夢だったのかも思えてきて、昨晩に彼が持ち込んで来た資料を朝一で再確認してしまったくらいだ。  だから、目をぱちくりさせたまま、カウンターの中で椅子から立ち上がるのが精一杯だった。 「えっと……」  大会社のCEOって、こんな朝からフラフラしてられるものなのかと、昨日聞いた話を端から疑ってしまう。就任したばかりなら、今が一番忙しい時期なんじゃないかと思うのだが……。  不審がる瑞希に気付いたのか、伸也は少し困ったように笑っている。 「今日は仕事の話と、瑞希からの信頼奪還の為に来た」 「仕事の話?」 「とりあえず、法人名義で新規10台をお願いしたいんだけど」  「10台口?!」とカウンター後ろで社内PCを触っていた店長が、慌てて立ち上がった気配がした。素知らぬふりをしながら、瑞希達の会話を盗み聞きしていたのがバレバレだ。  大口の台数もそうだが、法人名義となると売上がまた違う。個人に比べて法人契約は旨味が大きい。それが複数台ともなると、横取り店長の異名を持つ吉崎が飛び付かない訳がない。  胸ポケットから名刺入れを取り出しながら、瑞希の横に立った吉崎店長が伸也に向かって自分の名刺を差し出す。代われとばかりにグイグイと横から瑞希の椅子を押してきて、降って湧いた大口案件を奪う気満々なのが分かった。  いきなり突きつけられた名刺にはちらりと一瞬だけ視線を送った後、伸也は困ったように人差し指で鼻の頭の掻く。 「あー、彼女に受付して貰いたんだけどな」 「……田上さんのお知り合い、ですか?」  さすがの横取り君も、コネ案件までは手が出せない。急激にテンションの下がった店長に、伸也は嬉しそうに答えた。 「婚約者候補、ってところかな?」  向かいにいる瑞希の顔を覗き込んで、確認するように聞いてくる。さすがに子供の父親ですと紹介する訳にもいかない。瑞希は曖昧に笑って誤魔化した。  上司が元の席に戻って行くのを確認すると、瑞希は頭を仕事モードに切り替える。伸也に対してはいろいろ言わなきゃいけないこともあるが、まずは目先の仕事をこなす方が先だ。産後に今の代理店に勤めるようになってからは1年だが、その前も同業種の別代理店に3年ほど勤務していた。業界歴は店長よりも実は長いのだ。法人案件が美味しいことは十分に理解している。 「新規10台って、既存回線はあるの?」 「今、営業が使ってるのは別のとこだから、多分無いかな」 「そう、じゃあ支払い実績がないと法人でも最初から10台は審査通らないかも。先に数台だけで、残りは来月とかになることもあると思ってて」 「別に急いでないし、何でもいいよ」  法人でも個人でも、複数台をまとめて新規登録するには台数制限がかかることがある。最初は3台だけ通して、残りは初回料金の支払いを確認してから、というのがよくあるパターンだ。 「とりあえず、試しに審査通してみるね」 「任せる。これ、登記簿と俺の名刺ね。あと印鑑と通帳だっけ」  予め調べておいたらしく、登録に必要な物を瑞希の目の前に並べていく。本来なら経理が管理しているだろう銀行印や通帳をCEOが気軽に持ち歩いてる状況に、瑞希は首を傾げた。間違いなく、これは彼の本来の仕事ではないはずだ。 「瑞希と拓也が生活できてたのは、ここのおかげだからね。ちゃんと恩返ししなきゃ」  経理の人間が止めるのを振り切って、自らが行くと無理を通して来た。誰かに任せるのは簡単だが、それでは瑞希の信頼は取り戻せないだろう。  コピーを取りに離れた瑞希の後ろ姿を、伸也は熱い瞳で眺める。
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