第六話・大口の案件

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第六話・大口の案件

 伸也から依頼された新規契約の手続きはとても楽だった。必要な書類は完璧に持参し、希望機種やカラーも勧める前に指定してくれ、在庫が無い場合の予備の希望までも使用予定者に聞き取り済みだった。  余計な説明が必要ない、模範的な客だ。台数があるので記入する箇所は多かったが流れ作業のように手続きは進んでいく。  同僚の恵美にも手伝って貰いながら仕上げた契約書の審査を待つ間、伸也は待合スペースのソファーに座り、膝の上に広げたノートPCで仕事をしているようだった。途中でスマホが鳴ればPCを抱えて店の外に出て、通話が終わればまた戻って続きをするということを頻繁に繰り返していた。  瑞希が思っていた以上に今の伸也は多忙そうに見え、そんな中でありながらも自分のことを探し出してくれたことに、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。  会社名義の携帯を買いに行くなんて仕事は、いくらでも代理が立てられる。登記簿や名刺を見る限り間違いなく社長兼CEOである彼が、自ら出向かないといけないなんてことはない。社員証や名刺があれば総務や経理の人が手続きに来るのが一般的だ。彼の会社規模なら代理店への電話一つで、法人用の営業担当者を会社へ呼び付けることだって容易い。吉崎店長なら尻尾振って喜んで訪問するだろう。  そもそも、すでにある営業用の電話は別会社の契約だというのだから、あえて彼が瑞希の勤めるキャリアの物を求める理由は一つしかない。思い切り、公私混同だ。  と、店の固定電話の呼び出し音が鳴り響く。登録に何らかの不備があった場合、サポートセンターから連絡が来ることがある。瑞希はドキリとしながら店長のデスクを振り返った。ワンコールで受話器を上げた吉崎の声色は、あまり明るくはない。 「――はい。あー、そうですか。かしこまりました」  社用PCの陰に隠れていて、話している店長の表情は全く見えない。短い会話の後に切られた電話に、瑞希は確認しようと立ち上がる。完全な新規契約の時はいつも緊張する。登録が上がる前にお渡しの準備が全て済んでいても、不備があって審査が通らなければ全てキャンセルになって流れてしまう。 「KAJIコーポレーション様、10台口の審査通ったらしい」 「10台とも、ですか?」  個人実績の横取りは出来なかったけれど、店舗の実績には大きく影響するということもあり、吉崎店長は先程とは打って変わってご機嫌の声を張り上げた。 「九州支社様の方で既存回線があったから問題ないらしい」  待合スペースの伸也を見ると、こちらを向いてニコニコと微笑んでいた。瑞希の仕事への貢献もできた上に、彼が継いだ会社がちゃんとしているという証明にもなったからだろうか。 「今後、本社の社用携帯は全て切り替えようと思ってる。あと、個人名義ので仕事してるのもいるから、そちらは名義変更も必要になるかな。まだ全部は把握しきれてないから、全部で何台になるかは分からないけど」  登録が終わった携帯はまとめて会社に送り届けるように頼んだ後に、伸也は店長が卒倒しそうなことをさらっと言ってのける。 「勿論、全部一気には無理だから様子を見て少しずつになると思うけど。それでも、瑞希なら損させないだろ?」  経理から預かって来たという、各回線の利用明細書の束を取り出す。受け取った明細を瑞希は順に目を通していく。 「そうね。プランが合ってなかったり、割引も適応されてなかったりするのが多いから、かなり通信費は下がると思う。これなんか、法人割引すら入ってないし」  はるか昔に契約したまま、プランの見直しも無く引き継がれてきたのがありありと分かる利用明細。酷いものだと、社用携帯なのに有料サイトの月会費が毎月計上されたまま放置されている。最適なプランに変更することができれば、大幅な経費削減に繋がるはずだ。 「うん、瑞希に任せるよ」  満足そうに頷くと、信也はにこりと微笑んでいた。瑞希のことをちゃんと評価して認めてくれる、そういう伸也が瑞希は大好きだった。 「さすがに次からは、代わりの者が来ると思うけど、瑞希を訪ねるように伝えておく」 「じゃあ、名刺を何枚か渡しとくね」  横取り君の存在を察したらしく、伸也は「瑞希を訪ねるように」という部分を少し強調して言った。それが聞こえたのかどうかは分からないが、伸也が帰る際の見送りには吉崎店長が率先して出たがり、店舗入口どころかショッピングモールの入口まで付いていったらしい。  午前中に一日の売上目標を達成したことで、早めの休憩を恵美と二人揃って取らせてもらえ、ショッピングモールの社員食堂で瑞希はお弁当を広げていた。まだ昼前だから食堂を利用している人は少なく、厨房で調理する音がよく耳に入ってくる。 「さっきの安達社長ってさ、拓也君のお父さんでしょう?」 「え?」  急に指摘され、飲み込みかけてたご飯が焦って変なところに入ってしまう。咳込む瑞希の背をトントンと叩きながら、恵美はやっぱりねと呟く。本日の日替わり定食になっていたアジフライを割り箸で軽くつつきながら、瑞希の顔を揶揄うように覗いて来る。 「イケメンの遺伝子って怖いねー。そっくりだったし」 「そ、そんなにかな?」 「いやー、最初この人なんか見たことあるなぁって思ってて、接客しながらチラチラ観察してたら気付いたのよね。拓也君じゃんって」  いつ拓也本人の耳に入ってしまうかも分からないので、これまで瑞希は伸也と連絡が途絶えてしまって一人きりで子供を産んだことも、実家から縁を切られて苗字まで変わってしまったことも、誰にも話したことはなかった。勿論、職場で一番の仲良しである恵美にも。  おそらく周りの人達はみな、瑞希のことは単に結婚離婚を経験したシングルマザーで、相手が行方不明になった末の未婚の母だとは思っていないはずだ。 「婚約者候補って言ってたから、復縁を迫られてるとか? ってか、安達社長って瑞希の元旦那ってこと?」  今日の恵美はやけに鋭くて、少し怖いくらいだ。認知届と婚姻届を渡されたばかりなんて、口が裂けても言えない。  ――復縁って、そもそも私達って、いつ別れたことになるんだろう?
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