第九話・低層マンション

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第九話・低層マンション

 窓の外を流れて行く景色から目が離せない拓也を、瑞希はその隣に座って静かに眺めていた。同じ乗り物とは言え、車とママチャリでは走る速度も違う。早い速度で次々に目の前を通過していく光景を、目をキラキラさせて追い掛けている。今この子の目には新しい世界が見えているんだなと思うと、自分一人では与えることができなかったことの多さを実感する。  そして同時に思う――。 「今日はよく寝てくれそう……」  昼寝したばかりだから、車の中で寝かさなければ夜の寝かしつけで楽ができそうだ。運転席の熟年秘書が瑞希の呟きにこらえきれず吹き出したことは、気付かなかったフリする。きっと彼にも似たような経験があるのだろう。  白のセダン車は住宅街に建つ低層マンションの前で停まった。近くに小さい児童公園がいくつもあり、最寄りの駅にも徒歩で行ける、いわゆる子育て世帯の集まりそうな開発されたばかりの新興住宅地だ。この辺りは瑞希も何度かポスティングで歩き回ったことがあり、何となく土地勘はある。今勤めているショップからは駅二つしか離れていない。  そのマンションのエントランス前で停車すると、すかさず秘書が降りて後部座席のドアを開いてくれた。拓也をチャイルドシートから降ろして抱っこし、瑞希も伸也の後に続いて下車する。  ――ここって、誰の家なんだろ?  職場のショッピングモールからは近いが、この辺りに住んでいる知り合いはいない。伸也も今は自社ビルの近くに部屋を借りていると言っていたので、彼の家でもなさそうだ。 「ここは?」  聞いてみても、ニコニコ笑うだけで伸也は何も答えてくれそうもない。ずっと秘密で通されている。駐車場に車を移動しに行く秘書から鍵らしき物を手渡されていたので、会社関連の何かがあるのだろうか?  考えても分からず、ただ促されるままにエレベーターを昇り、6階にある605号室と表示された部屋の前に辿り着いた。そこで伸也はポケットから鍵を取り出すと、上下2つある鍵穴に順に差し込んでいく。 「さ、入って」  今住んでいる1DKのとは比べ物にならない広さの玄関に、天井まで届くシューズボックス。単身者向けではなく、明らかにファミリー向けの物件だ。玄関に並んでいるスリッパを履いて中に上がり、言われるがまま部屋を順に見て回る。拓也は場所見知りしてしまったのか、下そうとしても嫌がるので抱っこしたままだった。  アパートを出る時もそうだったが、瑞希が子供を抱っこすると、さりげなく伸也がマザーズバッグを持ってくれる。彼自身も自分のビジネスバッグを持ち歩いていたが、そんなことは関係ないとでもいうように瑞希のバッグを自分の肩に掛ける。 「何かすごいね。伸也の新しい家?」  基本的な家具や家電は設置されているが、生活感は全くない。内覧用のモデルルームか何かだろうか。否、モデルルームならもっと観葉植物とか絵画とかの見栄え重視の装飾品もありそうだが、ここにはそういった物は見当たらない。必要な物だけが揃えられ、すぐに住めるように用意されている空間。 「単身赴任者用に会社が買い上げてた部屋で、家具とかはそのまま使えばいい。光熱費も俺の報酬から天引きされるようになってるから、瑞希の負担はない」 「へ?」 「今の保育園からは遠くなるけど、この近くの園なら拓也の月齢のクラスには空きがあるのは確認済み」  職場は少し近くなるね、と言いながら、伸也は締め切られていた窓を開ける。ふわっと優しい風が部屋の中を駆け巡り、新緑の香りを運び入れた。 「俺としては今すぐにでも、三人で住みたいんだけどね。先に拓也とここに居てくれたら、安心かな」  抱っこされながらもキョロキョロと部屋の中を見回していた拓也が、何かを見つけてモゾモゾし出したので床にそっと下ろしてみる。よちよちと歩み寄って行ったのは、リビングの壁際に置かれた50インチ以上もある大型TV。今の狭いアパートには存在しないが、保育園の大きい組の保育室にはあるので、1歳児でもそれが面白い物であることは知っているようだ。  伸也がTVの電源を入れてあげるが、まだ昼を少し回った時刻だから幼児向けの番組は何もやっていない。それでも拓也は物珍しさからTVの前に張り付いて、時には興奮気味に画面を叩いていた。 「目悪くなるから、離れて見ようか」  TV画面から引き剥がし、距離を置いた場所に座らせる。でも、気付いた時にはまたかぶりつきで見ているので、また引き剥がす。――TV前にベビーガードと呼ばれる柵を設置している家が多い理由がようやく分かった。  家賃も光熱費も要らず、オートロックで駅も近い。しかも、職場があるショッピングモールへも二駅だから電車でも自転車でもどちらでも通勤可能。そして、徒歩圏内に拓也が入れそうな保育園もある。何より、家具家電付きで食洗機まで設置済。  ――こういうとこって、24時間いつでもゴミ出しOKなんだろうな……。  今のアパートはゴミ出しは朝8時半までというルールがあるが、野鳥等を理由に前日のゴミ出しは禁止されている。始業時間が遅めのショップ勤務としては通勤ついでに出すということが微妙に出来ず、ゴミの日には朝から出たり入ったりを繰り返さないといけないのが手間だ。  考えても考えても、伸也の提案は魅力的でしかない。これこそ、夢なら覚めないでと叫びたいくらいだ。けれど、瑞希は不安気に眉を寄せた。冷静に考えると、素直に受け入れることができない。 「でも、大丈夫なの? 社宅で隠し子を囲ってる、みたいな構図になるけど」 「隠し子って……。そういうのは気にしなくていいから」  瑞希が部屋の中を見て回っていると、いつの間にか拓也の隣に並んで座って、伸也も一緒にTVを見ていた。彼がスーツ姿でなければ、父子のただの休日の一コマみたいな光景だっただろう。  隠し子――自分で言ってドキリとする。本来なら、再会した時点で認知して貰って入籍もしてしまえば良いだけの話。順番や時期がいろいろとズレはしても、普通に家族になればいいだけ。  でも、彼は全国に支社を持つ大きな会社の代表に就任したばかり。血縁を重視した派閥によって担ぎ上げられた立場である彼には、その血を受け継ぐ子供の存在は足枷にならないだろうか。
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